大化の改新以前の天皇たち
大化の改新が起きる前、朝廷で最も力を持っていたのは蘇我氏でした。蘇我氏は意に沿わないと、天皇ですら排除する力を持ちます。崇峻天皇が蘇我氏に暗殺されたのち、天皇となった推古天皇は蘇我氏のトップである蘇我馬子と、皇族出身の聖徳太子(厩戸王)を組み合わせ、そのバランスの上に政治を行いました。推古天皇の次の舒明天皇の時代は、馬子の子である蘇我蝦夷が政治の実権を握ります。
蘇我(そが)氏に排除された崇峻天皇
古墳時代後半から飛鳥時代にかけて、最も力を持っていた豪族は蘇我氏でした。蘇我氏は朝鮮半島から来た渡来人たちの力を背景に、朝廷に仏教を持ち込みます。神武天皇以来の神道を重視する物部氏らと対立しました。
聖徳太子の父にあたる用明天皇がわずか2年の在位期間で亡くなると、大臣の蘇我馬子は敏達天皇や用明天皇の弟にあたる泊瀬部皇子を天皇に擁立しようとします。これに反対する物部氏を滅ぼすことで、蘇我氏は強大な権力を握りました。
蘇我氏に擁立された泊瀬部皇子は天皇に即位します(崇峻天皇)。しかし、政治の実権が蘇我馬子の手中にあることを不満に思った崇峻天皇は蘇我氏に反感を持ちました。それを聞いた蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺してしまいます。
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聖徳太子(しょうとくたいし)と蘇我馬子のバランスの上に君臨した推古天皇
崇峻天皇の死後、蘇我馬子は敏達天皇の后だった額田部皇女に即位を請います。当時は、近親婚が当たり前だったので、額田部皇女も皇族、しかも夫の敏達天皇と同じく欽明天皇の子でした。そのため、血筋としては問題ありません。
こうして、額田部皇女は即位し、推古天皇となりました。推古天皇は天皇として即位した日本史上最初の大王(女帝)となります。
推古天皇は、蘇我氏だけに権力を持たせることに不安があったのかもしれません。蘇我氏とバランスを保たせるように、皇族の代表を政治に参加させました。それが、聖徳太子こと厩戸王です。
推古天皇の摂政となった聖徳太子は蘇我馬子と協調しつつ、冠位十二階の制定や遣隋使の派遣、十七条の憲法の制定などを行いました。
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蘇我蝦夷が政治の中心にいた舒明天皇の時代
蘇我馬子の死後、蘇我氏の家督を継いだのは蘇我蝦夷でした。628年、推古天皇が在位36年でこの世を去ります。有力な皇位継承者は敏達天皇の子である田村皇子と、摂政だった聖徳太子の子である山背大兄王(やましろおおえのおう)です。
蝦夷は、蘇我氏の血が流れる山背大兄王ではなく、田村皇子を天皇として擁立します(舒明天皇)。山背大兄王が優秀すぎたからとも、蘇我氏に血が近すぎる天皇をたてることで他の豪族からの反発を招きたくないと思ったともいわれます。
舒明天皇の時代、政治の実権は大臣である蘇我蝦夷が握り続けました。この時代、聖徳太子が派遣した遣隋使が次々と帰国。百済や新羅からも使節が到来し、比較的安定した政治が行われました。
大化の改新
Gukei Sumiyoshi – Scroll painting from the Edo period., パブリック・ドメイン, リンクによる
蘇我蝦夷が引退し、蘇我入鹿が蘇我氏のトップに立つと、それまで以上に蘇我氏の専横ぶりが目立つようになりました。これを危惧した皇極天皇の子である中大兄皇子は中臣鎌足とともに乙巳の変を実行。蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしました。乙巳の変後、皇極天皇が退位し、孝徳天皇が即位。大化の改新の政治が始まります。
大化の改新の背景
642年、皇極天皇が即位すると蘇我氏では蝦夷が家督を入鹿に譲ります。蘇我入鹿は、皇極天皇のあとに古人大兄皇子を天皇につけようと考えましたが、そのためには、山背大兄王の存在が目障りです。そこで、蘇我入鹿は兵を送って山背大兄王の一族を滅ぼしてしまいました。
こうした、蘇我入鹿の専横ぶりをみて、このままでは天皇家は蘇我氏にのっとられてしまうと危惧したのが豪族の中臣鎌足でした。鎌足は、皇族の中で蘇我入鹿を滅ぼそうという気概を持った人物を探します。彼が行き着いたのは皇極天皇の子で、英明だと評判の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)でした。
また、中臣鎌足は蘇我入鹿と仲が悪い、蘇我氏の分家の蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れることに成功します。中臣鎌足と中大兄皇子は蘇我氏打倒のチャンスを探りました。
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