日本の歴史明治

司法のありかとは…日本の司法制度を確立させた「大津事件」をわかりやすく解説

近代国家には絶対になくてはならない原則である三権分立。その中でも司法権はこの三権の中でも特に大事な要素として知られています。 今回はそんな司法権が注目された日本の事件である大津事件についてその顛末と司法権の独立の意義について解説していこうと思います。

近代司法制度と司法権の独立

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今回解説していく大津事件。この事件の重要なキーワードとなるのが『司法権の独立』と『三権分立』というものでした。

日本はこの二つが無かったため、欧米列強からとある不平等な内容の条約が突きつけられていました。

司法権の独立

司法権の独立とは文字通り司法権はいろんな権力から独立するということです。

日本国憲法76条第3項には「全ての裁判官はその良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」とされています。

この良心というのは要するに客観的に裁判官として法に照らし判決を出すというもので、司法権を保持している裁判官や裁判所は法律や憲法以外の何物にも干渉をしてはならないとされているのです。

要するに裁判所の判決は行政を担っている内閣や立法を担っている国会はおろか、国の主権である国民も裁判の結果に茶々を入れてはならない上、たとえ国民からブーイングを受ける判決であったとしても公正に判決を出さなければならないのですね。

三権分立

近代司法制度の最重要事項であり、近代国家としても非常に重要な要素であるのがこの三権分立です。

三権分立とは要するに裁判所が担っている司法権、内閣が担っている行政権、国会が担っている立法権が互いの権力を監視するというものでした

この考え方はフランスのモンテスキューという人が提唱した考え方であり、アメリカ合衆国憲法にはじめで明記されてから世界中に広がっていきました。

日本でも明治時代に近代的な司法制度を導入するときにこの三権分立が確立されたのです。

 

ロシアの皇太子がやってくる!大津事件までの流れ

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時代は1891年。当時まだアジアの新興国であった日本はとある国賓の来日に大フィーバー状態となっていました。

この当時極東方面に勢力を伸ばしていたロシア。さらに勢力を伸ばしていくために鉄道の施設に熱心となり当時ロシア帝国の皇太子であったとニコライ皇太子は1891年に世界最長となる鉄道シベリア鉄道の着工式に出席するためにロシア極東方面の拠点であるウラジオストクに向かっていたそうです。

こうしてウラジオストクに向かい始めたニコライ皇太子。しかし、彼は目的地に到着する前に当時メキメキと成長を遂げていたアジアの新興国日本に興味を持ち始め、この日本に来日しようと考え始めたのです。

当時の日本はヨーロッパの中でも最強クラスであった大国ロシアの皇太子がやってくると聞くと国内中が大フィーバー。民間や政府が一体となってニコライ皇太子をもてなそうとと計画をし始めました。

この時の日本の力の入れようはとんでもないもので、京都ではニコライ皇太子が来日するときにはまずやらない五山の送り火を行い、接待の係に皇族である有栖川宮威仁親王が任命されるなど国を挙げての一大行事となっていきました。

大津事件の発生

ニコライ皇太子はまず、長崎と鹿児島をさに立ち寄った後神戸に上陸。そこから日本の接待を受けながら京都に向かい始めます。

京都では街一帯がニコライ皇太子を手厚く歓迎し、元々日本に興味を持っていたニコライ皇太子は大喜び。このままいい感じで京都から東海道を通って横浜・東京に向かっていたのですが、5月11日過ぎに滋賀県の大津を通過しようとしたときになんととんでも無いことが起こってしまったのです。

大津の街を通過している途中、なんとあろうことか警備を担当していた津田三蔵がサーベルを抜いてニコライ皇太子に斬りかかり、ニコライ皇太子に右耳上部に大きな怪我を負わせてしまったのでした。

ニコライ皇太子はとっさに逃げ、ニコライ皇太子が乗っていた人力車の車夫や同行していたギリシャ王国のゲオルギオスの助けもあってかなんとか怪我だけで済みましたが、この大津事件の発生によって日本国内ではとんでもない大騒ぎとなってしまうのです。

大混乱状態の日本

この大津でのロシア皇太子暗殺事件は政府はおろか、日本国民が衝撃を受けることになります。

ニコライ皇太子は命に別状はありませんでしたが、この暗殺未遂事件によって日本中で「報復のために日本に攻めてくる」という噂が流れ始め、日本国民は大混乱。

ニコライ皇太子の見舞いのために明治天皇は急いで療養中のニコライ皇太子の元へと訪問。

さらに日本中の神社や寺院や教会で病状回復の祈祷が行われ、国民による皇太子への見舞いの電報は1万通を超えました。

まさに日本全体がニコライ皇太子のことを心配していたことが見て取れます。

ここまでならまだわかるかもしれませんが、日本国民のロシアに対する恐れはここで止まることを知らず、ニコライ皇太子が療養中なのに学校に行くのは不謹慎だと、全国津々浦々の学校が休校となったり、京都府庁の目の前でニコライ皇太子に対する詫びの気持ちを込めて自殺したり、事件と何の関係もない山形県のある村が、犯人である津田三蔵の名前をつけることを禁止する条例を決議したこともありました。

このようにロシアのことを怖がることを恐露病と呼んだりしますが、日本国民は本当にロシアのことを恐れていたのですね。

どうして津田三蔵は皇太子に斬りかかったのか?

大津事件を起こしてしまった津田三蔵でしたが、彼がニコライ皇太子に斬りかかった理由には実は色々な理由が存在していました。

津田三蔵が逮捕されたのちに行われた供述によれば、ロシアの南下政策の一環として行われていた北海道近くにある諸島に関して快く思っていなかったことがありました。そもそも、ニコライ皇太子が訪日した理由にシベリア鉄道の起工式のついでに寄ったという事実があり、それが津田三蔵から見たら日本を攻めるための軍事視察でありロシアの極東進出の象徴であったと考えていたと思われます。

また、この大津事件が起こる少し前に日本で西南戦争で戦死した西郷隆盛がニコライ皇太子とともに帰ってくるというデマが囁かれており、これを聞いた津田三蔵が自身の活躍が剥奪されると考えたことから起こしたという理由もありました。

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