幕末日本の歴史江戸時代

【新選組】流星のように駆け抜けた剣士「沖田総司」の生涯をわかりやすく解説

幕末に活躍した新選組。その中で昔から一番の人気といえば沖田総司です。新選組で一番強かったのは誰か?という質問をすると必ず沖田総司の名前が候補にあがりますね。ドラマや映画では美少年・美青年の俳優が演じてますが、本当に美少年だったのでしょうか?幕末に流れ星のように現れて消えていった沖田総司という天才剣士とはどんな人だったのでしょうか?その生涯を追っていきましょう。

沖田総司ってどんな人だったの?

image by PIXTA / 1811116

新選組でも一番といってもいいほど人気の高い沖田総司。ドラマや映画ではイケメン俳優やアイドルが演じてますね。沖田総司という人は本当はどんな人だったのでしょうか?

そうそう幼名として「宗次郎」というのが一般的に有名ですが、沖田家古文書「幼名沖田総次郎」、墓石「沖田宗治郎」、日野・八坂神社献額「沖田惣次郎藤原春政」となっていますね。当時の人たちは読み方さえ一緒ならばけっこう適当に書いていた風潮がありますので、あまり気にしないでいいですよ。学のある山南敬助などですら自分のことを「三南」などと書いていますので。

沖田総司は長男なのになぜ後継ぎじゃないの?

沖田総司は、白河藩(現・福島県白河市)江戸詰め足軽小頭の沖田勝次郎の長男として、白河藩屋敷(現・西麻布)で生まれました。生まれた年については天保13年(1842)とも15年(1844)ともいわれていて、誕生日も6月1日といわれていますがはっきりとした記録はありません。兄弟は、みつ・キンという2人の姉がいました。姉のみつは後の新選組6番隊組長になる井上源三郎の親戚の井上林太郎を養子に迎え、キンは三根山藩(現・新潟市)の牧野氏の家来である中野伝之丞由秀という江戸詰の武士と結婚しています。

4歳の時に、父と母が亡くなり幼かったため家督を継げなかったので沖田林太郎が継ぐことになりました。そのためか戸籍では林太郎次男となっています。しかしそこから沖田家は白河藩と離れることとなって、林太郎の実家近くにある日野へと移住することになりました。井上家はみな天然理心流を習っていたので、その頃から稽古なども見ていたのでしょうね。

沖田総司は試衛館の内弟子となる

9歳の時に、多摩に出稽古に来ていた天然理心流試衛館の宗家近藤周助に、子供ながら大人を打ち負かす腕前を認められて内弟子となります。白河藩と離れた沖田家が経済的に苦しかったこともあったともいわれていますね。この時にはすでに新選組局長となる近藤勇は門人として試衛館にいて、後に門人となる副長の土方歳三とも知り合うことになったのですよ。そして19歳の若さで免許皆伝を許されたのですね。

よくドラマや小説では土方歳三が「おい、総司!」などと呼び捨てしているシーンがありますが、年下とはいえ相手は武士で先輩なので呼び捨てすることはなかっただろうと、新選組研究者の伊東成郎さんが講演会でいわれていました。

沖田総司は塾頭となる

安政7年(1860)に、試衛館の塾頭になります。北辰一刀流の免許皆伝も習得と墓石に書かれていますので、この頃に取ったのでしょう。とにかく天才剣士として皆が期待していました。しかし沖田総司の稽古は厳しくて、キレたりしてかなり荒かったようで、門人達は恐れていたようですね。

そんな時期に麻疹に罹らってします。麻疹は現在でも死ぬ人が多いので皆が大変心配したようで、小島鹿之助が「此人剣術者、晩年必名人ニ可至人也、故ニ我等深心配致ス(この人は剣術者として必ず名人になる人だから、私は心から心配しています)」と書き残しているのですよ。

当時の試衛館には「道場主の近藤勇をはじめとして、山南敬助・土方歳三・原田佐之助・藤堂平助・井上源三郎ら無骨の者達が集まって殺気立っていた」と、晩年の永倉新八が書き残していますが、稽古が終わってから世の中のことなどを話していたのかもしれません。

新選組と沖田総司

image by PIXTA / 6154600

文久3年(1863)2月に清河八郎が京都にのぼる将軍警護という名目の浪士組が結成されて、試衛館の近藤勇・土方歳三・山南敬助・永倉新八・原田佐之助・井上源三郎・藤堂平助も参加することになりました。しかしこの浪士隊は清河八郎の策で、実は将軍警護ではなく攘夷を目的としたものだとわかり、近藤勇たちは異を唱えて京都に残留することになります。もちろん沖田総司も一緒ですね。

浪士隊には義兄の沖田林太郎も参加していましたが、京都に残る沖田総司たちと別れて浪士隊と一緒に江戸に帰りました。皆が「お国のために自分たちも何かができるのではないか」という気概や思想を、沖田総司は薄かったようですが「自分の剣の腕がどこまで通じるか」という期待はあったのでしょうね。

斬り込み隊長!沖田総司

京都に残った近藤勇と沖田総司たちは、一緒に残った芹沢鴨たちのグループなどを含めて、勤王志士を名乗って京都で狼藉をはたらいてた不逞浪士たちに手を焼いていた京都守護職の会津藩のお預かりとなり「壬生浪士組」を結成しました。ただちに隊士募集をかけて36名になったのを組み分けして、沖田総司は一番隊の組長になりました。戦闘がはじめると一番隊というのは先頭を切って斬り込んでいかなければならない隊ですので、沖田総司は斬り込み隊長ということになります。同時に剣術指南にもなりました。試衛館の時と同様に怖い稽古をつけていたのでしょう。

8月に壬生浪士組は会津藩と薩摩藩が攘夷運動を推し進める長州藩を京都から追放した「八月十八日の政変」の警備に出動します。その功績を認められて「新選組」という隊名を拝命しました。朝廷から賜ったという説と、会津藩主の松平容保からという説がありますね。9月に屯所の八木邸で沖田総司・土方歳三・山南敬助らが、乱暴者で手のつけられなかった芹沢鴨の一派を会津藩の命令で粛清します。これで近藤勇を中心とした組織が形成されたのでした。八木邸には、たぶん沖田総司がつけたのだろうという芹沢鴨を襲撃した時についた刀傷が今も残っています。

次のページを読む
1 2 3
Share:
紫蘭