- ロシア革命はいろいろな段階がある_血の日曜日事件はその入り口だった
- 血の日曜日事件やロシア革命の背景には何があったのか
- ロシア帝国のロマノフ家王朝の優雅さの奥に隠された農奴の苦しみ
- 産業革命の遅れによってヨーロッパの後進国になってしまったロシア帝国
- 日露戦争が命取りになった
- 児玉源太郎の謀略説もある血の日曜日事件
- そして血の日曜日事件が起こった
- 最後の皇帝ニコライ2世は日本との因縁があった_大津事件
- 血の日曜日事件以降のロシア革命の主要な事件
- ロシア第一革命の発生_ロマノフ王朝の崩壊
- ロシア第二革命の成立_ソビエト政権の樹立
- ロシア全体が一つになっていたわけではなかった
- 最終的に血の日曜日事件はソビエト連邦(ソ連)で革命を完結させた
- 市民革命の血の日曜日事件からソビエト連邦へ
この記事の目次
ロシア革命はいろいろな段階がある_血の日曜日事件はその入り口だった
image by iStockphoto
ロシア革命は、一度に共産主義革命が起こったと思っている人が多いようです。しかし、血の日曜日事件からロシア帝国の崩壊と社会主義国家ソビエト連邦の成立までは、17年かかっており、その中でも何段階もの革命の流れがありました。
今回取り上げた血の日曜日事件は、その長いロシア革命の入り口となった事件です。多くの人が血を流した「血の日曜日事件」とロシア革命について見ていきましょう。
血の日曜日事件やロシア革命の背景には何があったのか
image by iStockphoto
かつてロシア帝国は、17世紀のピヨートル2世の時代以来世界でも有数の大国でした。しかし、ヨーロッパ諸国が中世後の専制君主制度から脱して、産業革命を通して近代国家に生まれ変わっていたのに対して、古い農奴制度が残り、次第に後進国となっていきました。
その過程で、ロシア帝国は、基本政策であった南下政策によりオスマン帝国をはじめ、ヨーロッパ諸国と衝突したことで、その後進性が明らかになっていったのです。そのため、アレクサンドル2世は、19世紀半ばに農奴制度を廃止しています。しかし、皇帝自身が専制君主制を維持しようとしたため、農民には農地を得るための資金負担が重くのしかかることになりました。さらに、政治主導の産業化によって産業革命が進み始めたものの、労働環境の悪化からロシア国民には不満が蓄積していったのです。
こちらの記事もおすすめ
【今さら聞けない】産業革命とその影響をやさしく解説! – Rinto~凛と~
ロシア帝国のロマノフ家王朝の優雅さの奥に隠された農奴の苦しみ
ヨーロッパの中世は、ロシアと同様、キリスト教の教会と領主によって閉塞感の強い社会になっていました。しかし、ルネサンス以降に自由主義と市民革命が進み、さらに産業革命を通じて中世社会を抜け出したのです。さらに、近代国家として発展をすることで、長く続いたイスラム勢力とのつばぜり合いを制しました。
しかし、ロシアではすでに見たように中世的な社会が19世紀半ばまで続いており、社会の担い手であった農民は農奴として苦しい生活を強いられていたのです。
さらに、ロシアが皇帝の命令で近代国家に脱皮しようとした段階でも、農民の生活苦はより強まります。そこに工場で働くようになった労働者の低賃金、過酷な労働環境などによる生活苦が重なり、ロシアの国内社会には、帝政に対する批判、不満が渦巻いていたのです。文豪のトルストイなどはそのようなロシア社会を描いていました。
その現実に目を背けて、ロシアロマノフ王朝の最後の皇帝になったニコライ2世は、サンクトペテルブルクで贅沢三昧の生活を送っていたのです。そのため、かけ離れた生活をしていた農民、労働者から抗議の対象となっていきました。
こちらの記事もおすすめ
産業革命の遅れによってヨーロッパの後進国になってしまったロシア帝国
image by iStockphoto
しかし、ロシア帝国の実情は、クリミア戦争の終盤にオスマン帝国の側に立ったイギリス、フランスなどのヨーロッパ主要先進国に敗れしまいます。バルカン半島でも南下政策を阻まれて、ロシア帝国は苦しい財政状況に陥っていたのです。ヨーロッパ先進国と比べるとその後進性が明らかになっていました。
こちらの記事もおすすめ
19世紀中ごろにヨーロッパ全体を巻き込んだ大戦争、クリミア戦争についてわかりやすく解説 – Rinto~凛と~