ヨーロッパの歴史

人間性を尊重した文化活動「ルネサンス」とは?わかりやすく解説

ルネサンス。またはルネッサンスということばはイタリアで起きた人間性重視の芸術活動です。その音の響きの良さから平成の日本ではスポーツクラブやジム、スパ、フィットネスクラブの施設名としても使われていますね。本来、ルネサンスはイタリアでおこった文化活動ですが、イタリア以外の地域・地方にも広がりを見せました。今回は本家のルネサンスについて、背景・内容・終焉についてわかりやすく解説します。

ルネサンスとは何か

image by PIXTA / 46165026

ルネサンスという言葉は「再生」「復活」を意味するフランス語です。ギリシアやローマなどの古典文化を手本として、人間性を尊重しようという文化的運動でした。かつては、「文芸復興」と訳されることも多かったのですが、現在はあまり用いられません。ルネサンスの定義や時代・範囲、ルネサンス以前の西欧文化について案内しましょう。

ルネサンスの定義・語源

ルネサンスは「Re」と「naissance」が組み合わさったフランス語です。19世紀のフランスの歴史家であったミシュレが使用したのが始まりだとされます。

ルネサンスということばを大きく広めたのはドイツの学者のブルクハルトでした。ブルクハルトはルネサンスを、個人が解放され、ヒューマニズムが誕生したととらえます。

最初は暗黒の中世から明るい近代に向かうきっかけとしてルネサンスは評価されていましたが、中世が必ずしも暗黒ではないこと、ルネサンス以後も魔女狩りなどの非合理な動きがみられることなどから、ルネサンス=近代の幕開けという単純な見方はできなくなりました。

ルネサンスは貴族や大商人・教皇など地位や権力を持った人たちの保護で成立しましたが、そこで生まれた表現はやがて人々に大きな影響を与え、個人が尊重される時代に向かうきっかけの一つとなったといえるでしょう。

ルネサンス以前の西欧文化

ゲルマン人の侵入により西ローマ帝国が滅亡してから、数百年は混乱の時代が続いた西欧。7世紀にはフランク王国の出現によって徐々に落ち着きを取り戻します。

8世紀後半にフランク王となったカロリング朝のカール大帝は宮廷でラテン文化の保護に努め、「カロリング=ルネサンス」とよばれる文化復興運動がおきました。もともとは各地の聖職者に正しいラテン語の知識を与えることが目的です。

12世紀に入ると、スコラ学という哲学が発達しました。西ヨーロッパ各地に大学が作られる運営されるのもこのころです。各地にゴシック様式の美しい教会が建てられ、騎士たちを主人公にしたさまざまな騎士道物語が作られたのもこのころでした。騎士道物語では女性を尊重する場面が数多くみられます。

騎士道物語などをうたい上げたのが吟遊詩人。彼らは各地をめぐって王侯貴族たちのために歌を歌ったのです。こうした、中世ヨーロッパ文化の発展は、その後に来るルネサンスの発展を準備していきました。

ルネサンスの背景

image by PIXTA / 14459800

西ヨーロッパでルネサンスが発展した背景は、西ヨーロッパの経済的成長でした。社会が安定した西ヨーロッパでは貴族たちが各地を支配・経営する荘園制の下、農業生産が拡大。さらに、十字軍運動の展開や地中海貿易の復活などでイスラム世界との接触も増大し、多くの情報がもたらされ、それが新たな刺激となっていきます。経済成長で富を蓄えた都市の商人たちは文化事業にも積極的になり、芸術が花開く前提条件が整備されました。

西ヨーロッパの経済的発展

西ヨーロッパでは人口の増加に対応するため、森を切り開き新たな農地を作っていきました。三圃制や家畜による農耕などによって生産性が向上。農業生産力が増大し多くの人々に食料を提供できるようになりました。

物資の増大は西ヨーロッパ域内での交易活動を活発化させます。北ヨーロッパではバルト海や北海沿岸の諸都市が加盟するハンザ同盟が成長。北イタリアではミラノ・ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェなどの都市国家が生まれます。

そうすると、ハンザ同盟諸都市と北イタリアの都市国家を結ぶ場所に位置するフランスやドイツでも都市が成長。都市に集まった人々は手工業品などを生産。それらを運ぶためにさらに交易が盛んになり関連産業も発達しました。西ヨーロッパ全体が経済成長を迎えたのです。

十字軍運動とビザンツ帝国の滅亡

拡大を続ける西ヨーロッパ経済は新たな領土を周辺に求めました。こうして始まったのが十字軍です。イベリア半島では「レコンキスタ」とよばれる半島の再征服、東ヨーロッパではドイツ人の騎士たちを中心とする「東方植民」が行われました。

なかでも最も規模が大きかったのが聖地エルサレム奪還のために編成された「十字軍」です。十字軍は現在のイスラエルからシリア・レバノンにかけての地域を占領し十字軍国家を打ち立てますが、サラディンなどによりアラブ側の反撃によって撤退を余儀なくされました。

この時、大量の人員と物資が北イタリアの都市国家の船によって運ばれ、地中海交易が活発化。交易の活性化はイスラム文化の流入ももたらします。一方、第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領などによって弱体化が進んだビザンツ帝国は1453年にオスマン帝国に滅ばされました。その結果、多くの知識人が西ヨーロッパに逃れます。

次のページを読む
1 2 3
Share: