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ロシア革命のきっかけとなった血の日曜日事件とは?詳しく解説

日露戦争が命取りになった

しかも極東での南下政策では、朝鮮半島や中国東北部に対する日本との利権争いが表面化していました。日本が日清戦争に勝ったあとには、ドイツ、フランスと結んで三国干渉をおこない、一時的に日本の進出を阻止しました。しかし、それによって日本国内の反発が高まり、ついに日英同盟を許して日露戦争に突入してしまいます。

ロシア帝国は、この日露戦争で厳しい敗北を喫してもすでに賠償金を支払う財力もなくなっていたのです。この日露戦争のさなかに起こったのが「血の日曜日」でした。それまで抑えられてきた農民や労働者の不満が爆発し、憲法議会開設の請願運動としてデモがおこなわれたのです。「血の日曜日事件」は、それを武力で鎮圧しようとして多くの国民の血を流させたことから起きた事件でした。

この責任を追求されたニコライ2世は、仕方なく議会の開設を認めざるを得なくなったのです。

児玉源太郎の謀略説もある血の日曜日事件

おもしろい噂話として、日露戦争前に内務大臣をしていた児玉源太郎は、部下に1億円という当時としてはとんでもない大金を渡して、ロシアの反政府勢力を背後からあおることを命じたと言われています。事実はわかりませんが、それほど当時のロシア国内には、下層民の不満が蓄積していたと言えるでしょう。

そして血の日曜日事件が起こった

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1905年1月9日についにロシア下層民の不満は爆発し、憲法制定、国会開設、労働者の諸権利の保障、日露戦争の中止などの要求を掲げて、皇宮に行進をおこなったのです。すなわち、ロシア帝国の近代化を求めて国民が立ち上がることになります。

この動きの中で、サンクトペテルブルクでの労働者による皇帝のいる皇宮への平和的なデモ(国会開設の請願行進)に、ニコライ2世は怒りました。ニコライ2世は、そのデモ隊に対して軍隊を動員した結果、軍隊が発砲をしたことで、多くの死傷者を出し、悲惨な血を流す事件となったのです。ロシア国内では、このニコライ2世の行為に対して批判が集まり、ストライキも起こって、皇帝は追い詰められました

この事件は、ロシア革命の第一段階と言えるロシア第一革命のきっかけとなりました。

最後の皇帝ニコライ2世は日本との因縁があった_大津事件

ロシアロマノフ家の最後の皇帝であるニコライ2世は、日本とは浅からぬ因縁のある人でした。よく世界史の教科書などでは、不平等条約改正の中で出てくる大津事件があります。この大津事件は、1891年5月に、当時皇太子だったニコライ2世が日本を訪問した際に、滋賀県の大津市の巡査であった津田三蔵に切りつけられて負傷した事件です。

幸い、ニコライ2世は命に別状はなく、神戸に停泊していたロシア軍艦に戻って日本に厳しい処罰(死刑)を要求し、日本政府も司法に対して圧力をかけました。しかし、当時の大審院(現在の最高裁判所)の院長であった児島惟謙(こじまいけん)は、圧力をはねのけ、あくまでも傷害事件として扱う判断を下します。そのため、当時の外務大臣青木周三と内務大臣であった西郷従道(西郷隆盛の弟)が辞職する事態になりました。結果として、青木周三がまとめかけていた不平等条約の改正は流れてしまったのです。

また、日露戦争前に伊藤博文が戦争回避のために、ロシアに渡り、ニコライ2世とも会談をして両国間の和平交渉をしようとしました。しかし、最終的にニコライ2世の判断によってロシアとの和平交渉は成立せず、最終的に日露戦争につながってしまったのです。

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