- 公家社会と武家社会は農業にその存立基盤があった
- 公家社会の始まりは奈良時代の永代墾田所有法に始まる
- 貴族たちの農地開拓と藤原氏の台頭
- 公家文化の頂点であった藤原道長と頼通親子
- 武士層に荘園の支配権を奪われて没落した公家社会
- 公家社会は明治時代まで続いた
- 最後の公家近衛文麿は総理大臣だった
- 公家社会の収入源の荘園を奪って成立した武家社会
- 源氏も平氏ももともとは天皇家から生まれた
- 武士層による荘園の支配権の奪取
- 武家社会の成立の最初は平清盛
- 源平合戦による武家社会の成立と公家の没落
- 後白河上皇の誘いに乗らなかった源頼朝
- 征夷大将軍の役割の変化_本領安堵とは
- 公家社会も長く続いた武家社会も農業を基礎に成立していた
- 武家体制を確立した徳川家康の農本主義
- 明治維新によって武家社会は終わった
- 農業の時代から工業の時代へ_さらにサービスの時代へ
- 武家社会と公家社会とは農業を基本とした支配層だった
この記事の目次
公家社会と武家社会は農業にその存立基盤があった
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公家と武家の違いは何なのでしょう。公家というと思い浮かべるのは平安貴族ですね。優雅な宮廷生活で、女子は十二単で着飾り、男子も源氏物語に描かれている光源氏ように、洗練された貴族社会を謳歌していました。平安時代には、摂政関白に登り詰めた藤原摂関家が我が世の春を謳歌しています。
それに対して武家は、武士層のことで、古くは平将門や源義家など、武骨な武士が有名です。武家社会を確立した鎌倉時代以でも、多くの戦いに明け暮れる姿が思い浮かび、守護大名から戦国大名へ下克上の時代もありました。江戸時代には、各大名の地位は士農工商に見られるように確立し、支配的地位にはいたものの、次第に戦いのイメージからは遠ざかっていったのです。
これらの公家社会と武家社会を支えていたのは、農業であったと言えます。公家も武家も、その収入を支えていたのは、農業、稲作でそれを独り占めにすることで権力を持ったのです。そして、武家社会と公家社会を両方終わらせたのは、産業革命による社会の変化、すなわち農業に依存する社会からの離脱であったとも言えます。
その過程を見ていきましょう。
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公家社会の始まりは奈良時代の永代墾田所有法に始まる
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公家社会を支えていたのは、荘園と言われる農村集落からの収入でした。大化の改新後に制定され、奈良時代に実施された班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)と言われる法律によって、戸籍が作られて農民には土地(口分田)が与えられます。中国の制度を模した法律でしたが、この口分田を与える代わりに、農民には租庸調(そようちょう)と言われる重い負担が負わせれたのです。水田から収穫される稲などの農作物を税金として納めるだけではなく、兵役などの労力の提供、絹織物などの地域特産品の提供など、租庸調は非常に過酷な内容でした。そのため、せっかく与えられた口分田を放棄して、逃亡する農民が絶えなかったのです。農地はどんどん少なくなって、国の税収も減少していきます。
そのため、収入が年々減っていくために、朝廷では、墾田永代私有法と呼ばれる法律ができたのです。貴族などが土地を開墾して、農地を取得した場合には、その土地は貴族の所有となることを認める法律を作って、農作地の減少を食い止めようとしました。
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貴族たちの農地開拓と藤原氏の台頭
それに呼応したのが、もともと古代から豪族として力を持っていた貴族たちでした。特に、大化の改新で活躍し、大和朝廷内で大きな権力を獲得した中臣鎌足を祖先とする藤原一族は、逃亡農民たちを集めて新たな農地を開墾していったのです。これが荘園となっていきました。この荘園で収穫される稲、農作物はすべて藤原氏などの貴族の収入となり、富を蓄えるようになっていったのです。この収入によって、貴族たちは平安時代には、朝廷を支える公家と呼ばれるようになります。その収入は朝廷の収入を上回るようになっていくとともに、朝廷自体を支配するようになっていきました。
これが公家社会の始まりになったのです。
公家文化の頂点であった藤原道長と頼通親子
平安時代になると、藤原氏の力はさらに強まり、朝廷内の権力を独占するようになります。実力者であった菅原道真が大宰府の流されたのも藤原氏の陰謀説が有力です。藤原氏は摂関家と言われるようになり、摂政関白という朝廷の官位を飛び越え、天皇の権力さえも奪ってしまいます。さすがに、天皇には血筋という点で奪うことはできませんが、皇后、妃に藤原氏の息女を送り込み、天皇家と姻戚関係を持って、財力だけでなく、権力まで手に入れたのです。
その頂点に立ったのが、関白藤原道長とその子の頼通でした。頼通は京都南方の宇治に平等院を作り、その豪華さと鳳凰を思わせる姿から鳳凰堂と呼ばれています。
しかし、それ以降は、公家社会には暗雲が立ち込めるようになっていきました。
武士層に荘園の支配権を奪われて没落した公家社会
公家たちが持っていた荘園は、地頭と呼ばれる武士にその管理を任していました。平安貴族である公家たちが自分の荘園に行くことはほとんどありません。すべて、荘園の現地にいる地頭に、収穫物の徴収、農民の管理まで任せて、自分たちは贅沢三昧にふけっていたのです。
そのために、地頭と言われた武士たちは、次第に収穫物をすべて公家たちに送らず、自分の蓄えにして、力を持つ武士が現れるようになっていきます。
一方、藤原摂関家以外の天皇家出身の下級公家の中には、地方の荘園に出向いてそこで武士として力を蓄える源氏や平氏の祖先たちが現れました。朝廷では、下級公家であっても、地方の荘園に行けば、天皇家の血を引く貴族としてほかの荘園の地頭たちの支持を集め始めたのです。
そして、荘園の地頭たちは、それらの高貴な貴族出身の武家の元に集まり、荘園そのものを自分たちのものとして、次第に京都にいる公家に収穫物を送らなくなっていきました。それによって、藤原氏一族の力も次第に弱まっていったのです。