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豊臣家と徳川家の間に起こった戦国最後の戦い「大坂の陣」をわかりやすく解説

1467年から脈々と続いていた戦国時代。そんな戦国時代最後の戦いとなったのが徳川家と豊臣家の戦いである大坂の陣でした。 元々天下を治めていた豊臣家がどのように滅ぼされていったのか、今回は大坂の陣が始まる直前から大坂の陣が終わるまでを解説していきたいと思います。

豊臣家と徳川家の確執

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1598年に豊臣秀吉がこの世を去ると、五大老のひとりであり豊臣家に次ぐ地位を確立していた徳川家康が徐々に力を強めていきました。1600年には関ヶ原の戦いで石田三成と毛利輝元ら率いる西軍に勝利。

その結果家康は豊臣家に変わる権力を持つようになり、関ヶ原の戦いから三年後に当たる1603年に征夷大将軍に就任。江戸にて江戸幕府を開き、江戸時代がスタートすることになります。

しかし、まだこの時は豊臣サイドは関ヶ原の戦いで少し力は削れたものの、秀吉の息子である秀頼が成人したら、最終的に天下は豊臣家に帰ってくると信じていました。

しかし豊臣家がこのようなことを考えていることは家康には伝わっており、これから先天下は徳川家のものだと示すために家康が征夷大将軍になってから2年後である1605年に家康は息子である徳川秀忠に将軍職を譲ります。

また、家康は東北・関東の大名などを始めとした大名に幕府の命令に背かないと誓わせていき足場を固めていきました。

この動きによって豊臣家と徳川家の関係は徐々に悪化していくことになるのですが、加藤清正や浅野長政らといった秀吉の元で出世していた豊臣恩顧の大名らの活躍によって一応の関係は保たれており、1611年には二条城にて家康と秀頼が会見できる状態まで持ち込むことに成功しました。

しかし、1611年に浅野長政や堀尾吉晴、1613年に加藤清正や池田輝政など豊臣家の古くからの重臣たちが相次いで逝去。これまで江戸幕府と豊臣家のとりなしをおこなってきた彼らがいなくなったことで、豊臣家は孤立していきます。

しかし、豊臣家は諦めません。一類の希望をかけて秀吉が残した莫大な遺産を使って浪人を集めたり、兵糧を買い占めて幕府との対決体制を全面的に押し出していき、そして運命の1614年を迎えることになるのでした。

方広寺鐘銘事件

こうして徐々に対決姿勢を強めていく両家でしたが、ついに戦争に持ち込まれる決定的な事件が起こります。

1614年、この年豊臣家が再建していた寺院の一つであった方広寺の大仏殿がほとんど完成していましたが、その大仏殿の鐘に刻まれていた鐘銘に家康は注目しました。家康は鐘に刻まれていた『国家安康 君臣豊楽』という文字を見て「これは家康を切り裂いて国を安らかにして、豊臣家が君主となって楽をするという意味で大変けしからん!」と豊臣家にいちゃもんをつけます。

実際のところは「国家を安らかにして主君と家臣が安寧に暮らせる」という意味でしたが、これを受けてついに家康は豊臣家征伐を開始。ついに大坂の陣の最初の戦いである大坂冬の陣が始まることになったのです。

大坂冬の陣の全貌

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こうして始まった大坂冬の陣。この頃になると天下は完全に徳川家のものになっていましたが、豊臣家には一応徳川家に張り合える自信がありました。次は大坂冬の陣について見ていきましょう。

天下の堅城であった大坂城

豊臣家が自信の一つと考えていたのが大坂城の存在でした。今では大坂城は再建されていますが、豊臣家時代の大坂城は南は天王寺まで城として堀と石垣に囲まれており、きたは大川や豊野川、西は木津川、南は平野川や猫間川などが流れておりまさしく天下の堅城といってもいいぐらいのものでした。さらに豊臣家は関ヶ原の時にあふれた浪人を雇いまくり総兵力は10万余、さらにその中には真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、明石全登、後藤又兵衛などの歴戦の武者などもいて、徳川家と遜色がないほどの兵力を集めていました。

ちなみに、徳川家は豊臣家の2倍である20万人。倍もいればいいとは思いますが、城攻めには5倍の兵でようやくと言われるほど防御側が圧倒的に有利なため、豊臣家は家康が死ぬまではなんとか持ちこたえるだろうと踏んでいたのです。

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