室町時代日本の歴史

『風姿花伝』を著し能を理論化した不世出の天才「世阿弥」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

顰(しかみ)、翁(おきな)、般若(はんにゃ)。これらは、何についての言葉かご存知ですか?正解は、能面についての言葉です。日本の伝統芸能である「能」は、室町時代に完成した芸能でした。能を大成させた人物こそ、今回紹介する世阿弥です。世阿弥は、変化の激しい室町時代にあって、能の究極の形を追い求めました。今回は、能の大成者「世阿弥」が生きた室町時代前半と世阿弥の生涯について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

世阿弥が生きた時代

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世阿弥が生きたのは、1363年から1443年まで。このころは、室町幕府の力が強く、全国に強い影響力を及ぼしていた時代でした。最も強い力を持ったのが金閣で有名な3代将軍の足利義満。義満は日明貿易を行い、有力守護大名を弾圧して幕府の権威を向上させました。義満の跡を継いだ4代将軍義持の時代も、将軍は強い力を持ちます。6代将軍足利義教は守護大名を押さえつけることに失敗し、暗殺されてしまいました。

南北朝の動乱を収めた足利義満

1334年、鎌倉幕府が滅んでから後醍醐天皇が建武の新政を行いました。ところが、建武の新政は公家中心で、武士たちを中心に後醍醐天皇への不満が高まります。この不満を集めて、建武の新政を倒したのが足利尊氏でした。

尊氏は後醍醐天皇とは別に、光明天皇を建て、後醍醐天皇に対抗します。京都の光明天皇と吉野の後醍醐天皇の二人が同時に並び立ち、朝廷が二つできてしまったので、南北朝時代といいますね。

南北朝の争いは、室町幕府が味方する北朝の有利になっていきました。それでも、南朝はなかなか降伏しません。1392年、足利義満は北朝と南朝の和解を仲立ちし、南北朝の争乱はようやっと終わりました。

また、義満は中国の明と勘合貿易をおこないます。明の臣下として貢物を献上する代わりに、莫大な返礼品を与えられる勘合貿易は、義満に巨額の利益をもたらしました。義満は得た利益の一部を文化活動に投資します。世阿弥の父である観阿弥も義満によって育てられた芸能者の一人でした。

義満の政策に反発し、真逆の政策を行った足利義持

1394年、足利義持は9歳で義満から将軍職を譲られ、室町幕府4代将軍となります。義満が生きていた時代、政治の実権は義満の手中にありました。義持が本格的に政治を行うのは1408年に足利義満が死んだ後です。

実は、義満が生きていたころから、義満と義持は不仲でした。その理由の一つは、義満の愛情が異母弟足利義嗣に注がれたことです。そのせいもあってか、政治の実権を握った義持は、義満時代の政策を軌道修正しました。

たとえば、朝廷が義満に「太上法皇」という皇族のような称号を贈ろうとした時、義持は辞退します。また、義満が積極的に進めた勘合貿易について、日本が明にへりくだりすぎだとして明の使者を京都に入れず追い返しました。その結果、勘合貿易は中断します。

ふたたび、義満時代の政策に回帰するも、暗殺された足利義教

義持には跡を継ぐべき男子がいませんでした。義持が腫物のせいで重症となると、幕府の重臣たちは義持に後継者を指名してくれるよう頼みます。しかし、義持は指名を拒否。結局、誰も指名しないまま義持はこの世を去ってしまいました。

困り果てた重臣たちは将軍候補者たちを集め、なんと、くじ引きで将軍を決定しようとします。前代未聞の将軍当たりくじを引いたのが、僧侶になっていた義満の子、義持の弟にあたる義円でした。義円は還俗(僧侶から、一般人に戻ること)して義教と名乗ります。

義教が政治のモデルとしたのは兄の義持ではなく、父の義満でした。義教は義持が中断させた勘合貿易を復活させます。

義教が力を入れたのが有力守護大名の抑圧。ところが、義教の時代、守護大名の力は義満時代より強大化。守護大名たちの中には、弾圧される前に義教を倒すべきだと考えるものも現れます。1441年、足利義教は播磨守護赤松満祐に暗殺されました(嘉吉の変

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