奈良時代の特色
710年から794年までを奈良時代といいます。奈良時代は平城京遷都に始まり、長岡京・平安京遷都まで続きました。この時代は、皇族と律令に精通した藤原氏が政権をめぐって争った時代です。と同時に、先進国だった唐の政治制度や文化を取り入れた国際色豊かな時代でもありました。奈良時代の特色についてまとめます。
都が飛鳥地方から奈良盆地の平城京へと移された
710年、元明天皇は都を奈良の平城京に移しました。平城京は唐の都である長安をまねてつくられた大規模な都城です。天皇の住まいがあり、政府の建物が立ち並んだ平城宮が都の北側に作られました。これは、皇帝は動かない星である北極星を背にし、南を向いて座るという「天子南面」の思想に基づくものです。
平城宮の中で政務や儀式を行った建物が大極殿。この建物は2010年に再現されました。平城宮からまっすぐ南に延びた大通が朱雀大路。朱雀大路の東側を左京、西側を右京と定めます。
平城京には多くの寺院が建てられました。大安寺・薬師寺・興福寺・元興寺などは藤原京から遷都した時に、一緒に平城京に移ってきた寺院です。平城京は創建当初から仏教の影響が強い都であることがうかがえますね。
こちらの記事もおすすめ
律令国家が作り上げた平城京の歴史についてわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
律令国家の成立と藤原不比等
平城京に都がうつる前の701年、日本で初めて本格的な律令である大宝律令がつくられました。大宝律令は古代の基本法律で、刑法である律と行政法である令から成り立っています。この大宝律令に基づいて、政府の仕組みである二官八省や役人のランキングといってもよい官位相当などの国の制度が定められました。
また、戸籍の制度や公地公民などの土地制度、租庸調などの税制も同時に整えられます。大宝律令やのちの養老律令制定に深くかかわったのが藤原不比等でした。
不比等は大化の改新で蘇我氏を打倒した天武天皇の側近、藤原鎌足の子です。不比等は娘を文武天皇や聖武天皇の后として送り込み、影響力を盤石のものとします。また、不比等は平城京遷都の際に藤原氏の氏寺を平城京に移しました。これが興福寺です。
こちらの記事もおすすめ
「大化の改新」で目指した中央集権国家~乙巳の変から改革内容まで~ – Rinto~凛と~
唐の先進的な政治制度や文化を学ぶ遣唐使が派遣された
聖徳太子が小野妹子を隋に派遣して以来、日本は中国に使者を派遣し続けました。隋が滅亡し唐に代わっても、その関係は継続します。日本が遣唐使を派遣し続けた理由は、唐の先進的な政治制度や文化を取り入れるためでした。
日本が奈良時代に入ったころ、唐では玄宗皇帝による開元の治が行われ、唐は最盛期を迎えます。遣唐使は4隻の船団で編成され、合計500~600人が日本から唐にわたりました。
遠洋航海技術が未熟だったため、遣唐使として唐にわたり、日本に戻るのは命がけのことです。困難な航海を経て日本にもどった人々は、唐の先進的な知識を用いて日本の発展に貢献しました。代表的な人物として吉備真備や橘逸勢といった官僚たちや玄昉・空海・最澄といった仏僧たちがいます。
こちらの記事もおすすめ
日本の古代文化が花開いた平城京と平安京 – Rinto~凛と~