仏教で国を守ろうとした聖武天皇の時代
聖武天皇の時代は内乱や疫病などが起きる多難の時代でした。篤く仏教を信仰していた聖武天皇は仏教の力により、世の中が安定することを願います。そのため、聖武天皇は全国に寺院を建てることや東大寺大仏の建立を命じました。また、中国から来日した鑑真は、日本ではまだ不十分だった寺院や僧侶の制度を整えます。
聖武天皇の即位のいきさつと長屋王の変
後に聖武天皇となる首皇子(おびとのみこ)は701年に文武天皇の子として生まれます。母の宮子は藤原不比等の娘。707年、父である文武天皇がこの世を去ります。この時、首皇子はまだ7歳だったため、文武天皇の母が元明天皇として即位しました。
715年、元明天皇は高齢を理由に元正天皇に位を譲ります。首皇子が聖武天皇として即位するのは724年のことでした。このころ、政権を担っていたのは皇族の長屋王です。
729年、長屋王に謀反の疑いがかけられました。この知らせを受け、藤原四子の一人である藤原宇合(うまかい)が兵をひきいて長屋王の屋敷を包囲します。屋敷を囲まれた長屋王とその家族は自ら命を絶ちました。以後、政権は藤原不比等の四人の子(藤原四子)が担当します。この事件を長屋王の変といいました。
九州でおきた藤原広嗣の乱
藤原四子が政権を担うようになって間もなく、四子の妹である光明子が聖武天皇の皇后となりました。藤原氏による支配は安泰であるかに見えましたが、737年に事態は急変します。
735年から737年にかけて都で天然痘が流行しました。天然痘は疱瘡とも呼ばれる感染症です。非常に強い感染力を持ち、致死率が高い恐ろしい病気でした。藤原四子は天然痘にかかって相次いで死去します。
空白となった政権を奪取したのが橘諸兄でした。諸兄は遣唐使帰りの玄昉や吉備真備を登用します。これに反感を持ったのが藤原宇合の子である藤原広嗣。藤原広嗣は738年に九州の太宰府に左遷され、不遇の日々をおくっていました。
740年、広嗣は吉備真備・玄昉の排除を唱えて九州で反乱を起こします。反乱は短期間で鎮圧されましたが、天然痘と政情不安は聖武天皇の悩みの種となりました。
国を守るための仏教だった奈良仏教
聖武天皇は天然痘や内乱などをおさめるため、仏教の教えをよりどころとします。といっても、奈良時代の仏教は今の仏教と大きく異なるものでした。
まず、奈良時代の仏教で救済の対象となったのは民衆というより国家です。国を守るための仏教だったので鎮護国家の仏教といわれました。そのため、奈良仏教は国の保護・統制を受けます。
また、奈良仏教は学問としての性格が強いものでした。三論宗・成実宗・法相宗・俱舎宗・華厳宗・律宗は南都六宗とよばれます。後世とことなり、一つの寺に南都六宗がすべてそろっていることもありました。これは、南都六宗が宗派というよりも仏教理論だったからです。
国家は僧尼令を定め、僧侶や尼僧を管理していました。そのため、僧侶たちは国の意志に反して勝手な行動はできません。仏教は国のためのものだったからです。聖武天皇が国の平安を祈るため、鎮護国家の仏教を盛んにしようとしたのは、当時の感覚としては自然なことでした。
国分寺建立の詔と大仏造立の詔
741年、聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じる国分寺建立の詔を発しました。諸国に七重塔を建て、塔の中に「金光明最勝王経」と「法華経」、聖武天皇が金字で直筆した「金光明最勝王経」などを安置するよう命じます。国分寺・国分尼寺には田畑が与えられ、寺には僧尼を常駐させました。
743年、聖武天皇は仏の法恩を天下に広めるため、廬舎那仏の造営を命じます。最初は滋賀県の紫香楽宮で造営されましたが、のちに平城京の東大寺に造営場所を移転。これが、奈良の大仏です。
大仏が完成したのは752年のことでした。天皇の位を娘の孝謙天皇に譲った聖武上皇は大仏の開眼供養をおこないます。756年に聖武天皇がなくなると、聖武天皇の遺品を納めた正倉院がつくられました。
鑑真が来日し、日本で戒律を確立した
奈良時代の仏教発展に力を尽くした人物として鑑真がいます。鑑真は唐の揚州出身の高僧です。奈良時代の日本では僧侶になると免税などの特権が与えられたため、勝手に僧侶になる私度僧が後を絶ちませんでした。朝廷は正しい仏教の戒律を授けられる僧侶を唐から招こうとします。
白羽の矢が立ったのが鑑真でした。鑑真は周囲の反対を押し切って来日しようとします。しかし、当時の航海技術が未熟だったため何度も渡航に失敗し、そのせいで失明してしまいました。
鑑真は六度目の航海でようやく日本に渡ることに成功します。鑑真は聖武上皇・孝謙天皇の歓迎を受け、東大寺で僧侶に戒律を授ける戒壇を設けました。こうして、日本でも仏教の制度が整います。その後、鑑真は唐招提寺を与えられました。