平安時代日本の歴史

今こそ知りたい・意外と知らない「空海」の生涯と業績

日本の歴史上の人物で「空海」という名前を知らない人はいないでしょう。空海は「弘法大師」とも呼ばれ、空海にゆかりのある寺や名所は日本全国に数多く存在します。しかし、偉大な僧侶であることは知っているが、どういう人なのか良く知らない、という人も多いのではないでしょうか。今回はそんな空海の生涯と業績をたどってみたいと思います。

空海の生涯[1]:仏教研究に明け暮れた青年期

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空海は平安時代に活躍した僧侶です。生涯を仏教の研究にささげただけでなく、文学や芸術、土木建築、教育など様々な分野で力を発揮します。1200年以上経った今でも多くの人に知られる空海は、どのような人物だったのでしょうか。

生誕地は香川県・将来を期待された秀才だった

空海は宝亀5年(774年)、現在の香川県善通寺市にあたる、讃岐国の屏風浦というところで生まれました。父は地元を統括する地方役人で、幼名は真魚(まお)。幼いころから非常に優秀で、将来を期待されていたと伝わっています。

両親は空海が中央の役人になることを望んでいたようです。14歳のとき、母方の実家のつてで京の都に上り、本格的な勉強を始めます。18歳になると大学寮(官僚育成専用の教育機関)に入り、勉学に励みました。論語、史伝、考経などを精力的に学んでいたといいます。

非凡な才能を持った空海は大学の勉強だけでは物足りなかったようです。このころ、吉野山などに出向いて山にこもり修行も行っています。仏教・儒教・道教などの思想に大いに影響を受け、中国語などの勉強にも目を向けたようです。そして24歳のとき、『三教指帰』と呼ばれる文書を記し、事実上の出家を宣言します。

遣唐船に乗って中国へ渡り仏教を学ぶ

その後も熱心に仏教の修行を続けていた空海に、延暦23年(804年)、大きな転機が訪れます。前の年に派遣された遣唐使船が遭難したため、この年も遣唐使が派遣されることになったのです。

空海当時31歳。第16次遣唐使団には、後に天台宗の開祖となる最澄も名を連ねていました。遣唐使のとき最澄は既に天皇にも認められ地位もある僧侶でしたが、空海はこのときはまだ僧侶としては無名。医学や語学の知識を買われて一団に加わったとも言われています。

命がけの航海を経て、空海たちは何とか入唐。当時の船は舵などあってないようなもので、どの海岸に着くかほぼ風任せだったので、日本からの船など受け入れたことのない小さな港町に漂着したため、長安の都にたどり着くまで2か月近くかかったのだそうです。

空海は都で恵果(けいか・えか)和尚のもとに身を寄せ、密教(大日如来を本尊とする真言密教)の教えを授かります。ここでも空海の優秀さは高く評価されることに。空海はインドの学問をはじめ、土木や薬学など多くの学問を修めます。

命がけの帰国と真言宗の開宗

唐に入ってから2年後、空海は帰国の途につきます。

出国当初、空海の留学期間は20年の予定でした。当時の遣唐使船は、そうそう頻繁に出ているわけではありませんでしたので、期間を短縮して勝手に帰ってくるなどありえないことでしたが、たまたま船があったことを知った空海は帰国を申請。理由は、もう学ぶことがなくなったから、と伝えられています。

実際、空海は相当なスピードでかなりの量の学問を習得していたようです。

しかし、いくら学問の成果があったからといって、20年のところを2年で帰ってきてただで済むわけもありません。命がけの航海の後、博多に漂着した空海は、しばらく大宰府に滞在。京へ戻ることが許されたのは帰国後2年ほど経ってからのことでした。

密教に関する膨大な資料、書籍、仏像、法典、曼荼羅など、唐の文化を持ち帰った空海はやがて天皇にも認められます。そして弘仁7年(816年)、高野山に修行の場を開くことを許されるのです。

空海の生涯[2]:高野山の開創から永遠の世界へ

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中国大陸でもその才能を発揮し、認められたと伝わる空海。帰国後もひたすら仏教研究に身をささげ続けました。やがて朝廷から高く評価されるようになり、様々な分野で精力的に活動を続けます。「弘法大師」という名前からもわかるように、書家としても非凡な一面を持っていた空海。開祖となってから晩年までの功績をたどってみましょう。

開祖として書家として文人として

空海は高野山に金剛峯寺を建立し、さらに天皇から東寺を与えられ、高野山と東寺を中心として真言密教の布教と弟子の育成に力を注いでいきました。

また、私立の教育機関「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を東寺の近くに設立し、貴族だけでなく庶民も受け入れて教育を受けさせたのだそうです。

高野山に修行場を開いてからの空海は、土木の知識を活かし、農民たちのためのため池(満濃池)の改修工事などにも着手しています。実にパワフルです。

空海は没後(入定後)80年以上経った延喜21年(921年)に、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう・生前の功績に対して贈られる名)が贈られています。「弘法も筆のあやまり」「弘法筆を選ばず」などのことわざに登場するように、空海は唐にいた頃から既に書家としての才能を開花させていました。

また、空海は詩作や作文にも長けており、どんな文章でも下書きなしでささっと書き上げたとか。数多くの著作を残したことでも知られています。

ライバル・最澄との関係

ここでもう一度、同じ遣唐使団に加わっていたエリート僧・最澄について考えてみたいと思います。最澄は空海より少し年上。先ほども触れたように、遣唐使に加わったときは日本の仏教界期待の僧侶でした。

最澄の留学期間は1年間でした。最澄が学んだのは主に天台の教え。時間が足りなくて密教の習得まで手が回らなかったようです。

帰国後の日本では、密教が流行し始めます。最澄は僧侶としては格下の空海のもとへ出向き、プライドを捨てて密教を学んだのだそうです。

当初の二人は、互いに才能を認め合い、手紙のやり取りなどもしながらそれなりの交流があったと伝わっています。

空海は前述のとおり、天皇にも目をかけられ、修行の場も与えられてめきめきと頭角をあらわすスーパー僧侶に。一方の最澄は山にこもって地道な布教活動を続けます。

あるとき、最澄は、密教の経典を貸してほしいと空海に頼みました。空海は、密教は自分自身で習得するものであり貸し借りするべきものではないと、この申し出を断ります。これは密教に対する双方の考え方の違いからくるもので、どちらが悪いというわけではないのでしょうが、とにかく二人の間には、修復不能な溝ができてしまったのです。

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