幕末日本の歴史江戸時代

進め「咸臨丸」!日本で始めて太平洋を横断した洋式軍艦の生涯を解説

「咸臨丸(かんりんまる)」とは、幕末、日本で始めて太平洋を横断した江戸幕府の軍艦です。あの勝海舟が乗り込み、1860年、アメリカへの使節団に随行して太平洋を渡り、帰還した船……というところまではご存知の方も多いと思いますが、アメリカらから戻ってからの咸臨丸の行く末は、あまり知られていないようです。そこで今回の記事では、咸臨丸がどのような末路を辿ったのかじっくり辿ってみようと思います。幕末から明治にかけて、日本の夜明けを見つめ続けた咸臨丸。最期はどうなったでしょうか。

日本の夜明け~太平洋を横断した咸臨丸

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欧米列強に追いつけ!海軍養成のための練習艦として日本へ

咸臨丸とは、オランダで造られ、1857年に日本に送られた江戸幕府所有の木造軍艦です。

日本に到着した咸臨丸は、徳川幕府が海軍士官養成の目的で1855年に設立した「長崎海軍伝習所」の練習艦となりました。

価格は10万ドルくらいしたとか、25000両くらい払ったとか言われています。タダでもらったわけではないようです。

「咸臨」とは、易経の世界での言葉で「咸応」を意味し、おそらくは、上に立つ者とそれに従う部下が互いに心を通じ合わせ、一致団結して事に臨むことを願ってつけられてのではないか、と思われます。

咸臨丸が日本にやってくるより2年ほど前の1855年、オランダから観光丸(かんこうまる)という船が、同じく長崎海軍伝習所の練習艦として既に到着済み。咸臨丸は2隻目の洋式軍艦ということになるのです。

また、咸臨丸と同時期に、朝陽丸(ちょうようまる)、電流丸(でんりゅうまる)という木製軍艦も日本に到着。電流丸は佐賀藩が購入したものなのだそうです。

1853年にペリー率いる黒船が来航してからわずか数年、日本にも洋式の船が続々入ってくるようになります。

これからは海だ!軍艦だ!操練所で志士たちと鍛錬

咸臨丸はオランダのキンデルダイクにある造船所で組み立てられたた蒸気コルベット艦。コルベットとは軍艦の艦種のひとつです。

オランダでは「ヤパン号(Japanの意味)」と呼ばれていました。

洋式の木造スクリューを搭載した、日本初の本格的な軍艦です。

全長48.8m、全幅8.74m、重量およそ約600t。蒸気式のため燃料は石炭。動力機関はおよそ100馬力で、最大速度は6ノット(時速10Km)と伝わっています。装備として32ポンド砲12門備えていました。

余談ですが、箱根の芦ノ湖に浮かぶ遊覧船(海賊船?)は全長35mだそうなので、ロワイヤルⅡやビクトリーなど芦ノ湖の観光船を間近で見たことのある方なら、咸臨丸がどれほどの大きさであったかおおよその想像が付くと思います。

3本マストの巨大軍艦。幕末の人々の目にどのように映ったのでしょうか。

やがて江戸(築地)に「軍艦操練所」が設立され、1859年に長崎海軍伝習所は閉鎖されると、咸臨丸も江戸へ。この施設の卒業生には勝海舟や小野友五郎、肥田浜五郎など、軍人としてだけでなく学者や官僚として活躍した人々も名を連ねています。

近代日本を象徴する施設で、咸臨丸は幕末の志士たちとともに訓練に明け暮れていました。

太平洋横断!使節団とともに一路アメリカへ

1860年、咸臨丸に大きな転機が訪れます。

日米修好通商条約のため、アメリカに向かう軍艦ポーハタン号に随行し、使節団の護衛として大海原に出ることになったのです。

アメリカからやってきた船とはいえ、日本人だけで長い航海をするのははじめて。ポーハタン号は70mを超える大型軍艦で、パワーもスピードも違います。

しかし咸臨丸はやりました。安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を出航。行きはアメリカ人の水夫たちに助けられながら、38日間ほどでサンフランシスコに到着します。しかもポーハタン号より少し早く到着したのだそうです。

艦長は勝海舟であるといわれていますが、実際には軍艦奉行の木村芥舟(きむらかいしゅう)が勤めたとも伝わっています。何せはじめての長旅です。どういう指揮系統をとればよいか、誰もわからなかったのでしょう。天候も荒れ気味で、かなり混乱した航海になったようです。

このとき、通訳としてジョン万次郎も同行。また、木村の従者としてあの福沢諭吉も咸臨丸に乗っています。

復路では、アメリカ人水夫数名が乗り込むだけで、ほとんど日本人だけで船を操りました。途中、ハワイに立ち寄りつつ45日間。概ね天候に恵まれ、比較的穏やかな航海で混乱は少なかったといわれています。

合計83日間、およそ20,000kmの航海を無事終え、近代日本の象徴となった咸臨丸。この航海の成功が、日本の海運に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。

幕末から明治へ~咸臨丸はいずこへ

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太平洋横断を成し遂げた咸臨丸ですが、これで役目を終えたわけではありません。大役を果たした咸臨丸には、多くの仕事が待っていました。そして時代は江戸から明治へ。咸臨丸はどうなったのでしょう。続きを見ていくといたしましょう。

酷使しすぎ!蒸気機関を外して帆船に

アメリカから戻った咸臨丸は、横浜港周辺など日本海域の警護などの任務に。1861年にはロシアへも赴きます。

1862年には調査団を乗せて小笠原諸島へ。各島を詳しく測量し、小笠原諸島は日本の領土であると主張します。

江戸と長崎を往復し、人の輸送にも携わりました。

近代日本を支え、長い航海に耐え続けた咸臨丸。故障が続くようになったため、1866年、蒸気機関を取り外すこととなり、以後は帆船として活動を続けることとなります。

そしてしばらくの間は、物資を運ぶ輸送船として活躍していました。

幕末から明治へ~咸臨丸の数奇な運命

その頃の日本はというと、幕末の末期。1868年、戊辰戦争が勃発します。

その当時、咸臨丸は品川に停泊していました。しかし旧幕府軍の艦隊を率いていた榎本武揚の指示で、他の軍艦や輸送艦とともに奥羽越列藩同盟の支援のため北へ向かいます。

しかし千葉沖で悪天候に見舞われ、他の船とはぐれてしまい、下田に漂着。修繕を行いますが、新政府軍の襲撃を受け、ついに拿捕されてしまいます。

戊辰戦争は1869年、北海道五稜郭の明け渡しで終結。新政府軍による北海道開拓の人員や物資を輸送するため、咸臨丸は海を進みます。

1871年、咸臨丸は北海道へ移住を決めた片倉氏の家臣たち400名余りを乗せ、仙台から北海道の小樽へと出航しました。その途中、暴風雨に遭遇。津軽海峡を望むサラキ岬で遭難、沈没してしまいます。

太平洋横断という前人未踏の偉業を成し遂げながら、揺れ動く幕末の日本を静かに見続けてきた咸臨丸。1984年、サラキ岬沖で錆びた錨(いかり)が見つかり、後に咸臨丸のものであると判明。今も海の中で静かに時を刻んでいるのでしょうか。

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