民衆に寄り添った僧侶、行基
行基は奈良時代の僧侶です。奈良時代の仏教は国のための仏教でした。そのため、勝手に布教活動をすることなどは禁止されています。しかし、行基は民衆に対し積極的に布教しました。そのため、僧尼令違反の罪に問われ、行基と弟子たちは弾圧されます。
行基は弾圧にもめげず、布教活動と社会福祉事業を実践していきました。行基たちは水田の灌漑施設や橋の建設、布施屋とよばれる休憩宿泊所の設置など現代でいう公共事業にあたることをおこないます。
朝廷は行基の行動が反政府的な活動ではないと判断し、次第に弾圧を緩めていきました。行基の指導力に目をつけた聖武天皇は、大仏造立にあたって行基に協力を要請します。大仏造立への行基の協力に対し、朝廷は大僧正の位を送りました。
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強くなりすぎた仏教勢力は国政にも影響を与えた
鎮護国家の仏教として朝廷から保護された仏教ですが、墾田永年私財法の制定をきっかけに富を蓄えます。また、僧侶の中には朝廷で政治に携わる者が現れました。称徳天皇寵愛を受けた道鏡です。こうした仏教勢力による政治への干渉を避けたかったのが桓武天皇でした。桓武天皇は都を平安京へと移し、奈良の仏教勢力と距離を置きます。
墾田永年私財法を利用して、大寺院は荘園を設けた
聖武天皇時代の743年、土地に関する重要な法律が出されました。それが、墾田永年私財法です。
律令国家である奈良時代は、土地と人民は国に所属するとされていました。この原則を公地公民といいます。しかし、奈良時代の中期になると荒れ地が増え、税収が減少傾向にありました。状況を打開するため、朝廷は税を納めるかわりに土地の私有を認める墾田永年私財法を出します。
この法令を利用して、大貴族や寺社が私有地である荘園を増やしていきました。また、東大寺は大仏造営に伴って4000町歩の土地の開墾権が与えられます。他の寺院も同様に開墾権が認められました。大寺院は開墾して手に入れた荘園を財政的基盤として勢力を強めていきます。
称徳天皇の寵愛を受けた僧道鏡
奈良時代には政治に関与する僧侶も現れました。その代表が道鏡です。道鏡は河内国に生まれた人物で法相宗の高僧義淵の弟子となりました。その後、良弁から梵語を学び禅の知識に精通したといいます。
能力を見込まれた道鏡は宮中の仏殿である内道場に入ることを許され、宮中に出入りするようになりました。761年、孝謙上皇が病にかかると道鏡は上皇の看病にあたります。このことで孝謙上皇は道鏡を深く信任しました。孝謙上皇が重祚(一度退位した天皇が再即位すること)し、称徳天皇となると道鏡は764年には大臣禅師、765年には太政大臣禅師と異例の出世を遂げます。
769年、九州にある宇佐八幡宮から「道鏡を天皇とすれば天下は治まる」という神託が朝廷にもたらされました。勅使として派遣された和気清麻呂は神託が偽物であることを暴き、道鏡の天皇即位を阻みます。やがて、称徳天皇が死去すると道鏡も失脚し下野国に左遷されました。
奈良時代は仏教が政治にまで影響を及ぼした時代だった
聖武天皇が厚く仏教を信仰したこともあり、奈良時代は政治と仏教が密接に結びついた時代でした。鑑真のように戒律を整えたり、行基のように社会福祉事業を行う人物がいる一方で、道鏡のように権力者と近しい関係になり僧侶でありながら国政を左右した人物もいました。こうした政治と仏教のしがらみを嫌った桓武天皇が都を平安京へと移すことで奈良時代は終わりを告げたのです。