室町時代戦国時代日本の歴史

日本を変えた「関ヶ原の戦い」戦国時代から平和な時代に変えた戦いをわかりやすく解説

日本を変えた戦いはたくさんあります。現在の天皇家を確立した神武東征の戦い、平安貴族から武士の世の中に変えた源平合戦、武家社会を終わらせ、近代日本への移行をおこなった明治維新の戦いなどがありました。そして、もう一つ。徳川の世の中を作った関ヶ原の戦いは、たった1日の戦いでしたが、戦国時代と言う戦乱の世の中を250年にわたる平和な時代に導いた戦いでした。 この、徳川家康が平和な江戸時代を築いた関ヶ原の戦いについて解説します。

関ヶ原の戦いは日本をどのように変えたのか

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関ヶ原の戦い以前の日本社会は、室町幕府の足利将軍の力が弱く、常にどこかで戦いが起こっている時代でした。織田信長と豊臣秀吉が、その戦国大名同士が互いに領地をめぐって争う戦いでバラバラだった日本国内を統一したのです。しかし、両者ともに、後継ぎに恵まれず、組織的にも脆弱であったために、永続性のない政権となってしまいました。それに終止符を打って、永続的な戦いのない社会を築き上げたのが、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康だったのです。

徳川家康が江戸幕府を作ってから大阪夏の陣までは、豊臣残党によって不安定な世の中は続いたものの、豊臣秀頼と淀君が大阪夏の陣で自害して徳川幕府は磐石になりました。関ヶ原の戦いで家康が勝っていなければ、戦国の世の中に逆戻りしていたと言ってもよいでしょう。

戦国時代は信長、秀吉、家康によって終った

織田信長が現れるまでは、戦国大名たちが互いの領土をかけて戦いを繰り返す社会でした。有力戦国大名が覇権を競い、下克上もさまざまにおこりましたが、足利将軍にとって代わることはしなかったのです。その中で、織田信長が天下布武を掲げて統一に動きだし、その家臣であった羽柴秀吉が全国統一を実現しました。しかし、豊臣政権は、有力大名を五大老に指名し、実務を五奉行がおこなう形にしたものの、五大老間がバラバラで、筆頭大老の家康は五奉行と対立していたのです。そのため、脆弱で内部対立が起こり、それを利用した徳川家康が最後の仕上げをしたと言えます。

変革者の信長と保守派の家康

信長は、「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」と絶対権力で恐怖支配を家臣に対しておこないました。それに対して、家康は「鳴くまで待とうほととぎす」と我慢強く自身の出番を待っていたのです。家康自身は信長のように革新的な思想はなくが、その心を隠して最後まで待ったことで、社会の混乱を招かず、長期にわたる平和な社会を実現したと言えます。

日本を変えた戦い関ヶ原の戦いはなぜ起こったのか

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徳川家康は、もともと今川義元の元に人質に出されているように、三河の弱小領主を父に生まれ、不遇な少年時代を過ごしています。三方原の戦いでは武田信玄にこっぴどく負けているように、戦さもそれほどうまいと言うわけではなかったのです。そのため、独立もままならない立場だったものの、桶狭間の戦いの後に織田信長の配下に入ったことで、独立を果たし、未来は開けました。そして我慢強く出番を待ったことで最後に日本を変える戦いに勝つことになったのです。ただ、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。後に家康は、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と有名な言葉を残しています。

徳川家康は、本能寺の変の後に野心を持った

徳川家康は、織田信長が健在な間は忠実な飼い犬に徹していました。信長の命令によって、長男と正室を自害させてもいるのです。そのような歯を食い縛るような立場も耐え忍んでいます。信長が非常に革新的な考えの持ち主であったのに対して、家康はどちらかといれば保守的に世の中を大きく変えることには反対でした。信長の革新性はそれに反対する保守的な敵を作り、ついには本能寺の変で身内の明智光秀に討たれたのです。

本能寺の変は、家康に天下への野望を持たせたものの、秀吉が光秀を討ってしまったことから、チャンスを失いました。その後も、織田信雄を旗印に秀吉を小牧・長久手の戦いで破るなどの動きを見せたものの、織田信雄が後継ぎにふさわしくないことをさとり、結局秀吉の軍門に下っているのです。

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