日本の歴史

遷都は辛いよ…日本の遷都の歴史と物語

今でこそ日本の首都は東京なんですが、実は昔は平安京や平城京といった京都と奈良などに置かれていました。 しかし、どうして日本は平城京から平安京へ、そして平安京から東京への遷都するようになったのでしょうか? 今回はそんな日本の遷都の歴史について迫っていこうと思います。

そもそも日本の都ってどんな感じ?

image by PIXTA / 29479770

世界における首都の意義は国によってバラバラなんですが、日本の場合は天皇が住んでいるところだと言えます。そのため、政治の権力が移ったことがある鎌倉や江戸は首都とは言えないことになっているのです。

また、7世紀に遷都することになる藤原京の前までは、天皇が代替わりするごとに都と移していました。この頃を俗に歴代遷宮と呼ばれていました。

ちなみに、今の時代日本の首都を決めた法律はなく、実質的な日本の首都は決まっていない状態となっています。まぁ、どう考えても今の日本の首都は東京だとは思いますけどね。

大化の改新による中央集権国家への道【飛鳥板蓋宮から難波宮】

image by PIXTA / 49829535

大化の改新が始まる646年以前、日本における首都は上にも書いた通り天皇の代替わりで都が移されていました。

大化の改新が起こる以前、日本における首都は飛鳥板蓋宮でありこの地で乙巳の変が起こったりもしましたが、大化の改新のリーダーである中大兄皇子はこれまで都が置かれていた飛鳥から離れ、海にも近くこの時は国際的な港であった難波に都を移そうと計画されたのでした。

そして、この時天皇であった孝徳天皇は難波に遷都。652年に宮殿が完成し、ここで大化の改新の様々な事業が行われるようになったのです。

斉明天皇の重祚【難波宮から飛鳥板蓋宮】

こうして都が難波に移されましたが、中大兄皇子は移った翌年には飛鳥へと都を移すという提案を行います。やはり首都が移った時に昔のことを懐かしむようなことが中大兄皇子にも起こったのでしょうね。653年には孝徳天皇と中大兄皇子の仲は最悪なものとなり中大兄皇子は思い切って全ての家臣と仲間とともに飛鳥へと移転。

孝徳天皇はこのことに絶望してしまい、翌年に死去。その代わりに皇極天皇が再び天皇に返り咲き重祚という形で飛鳥板蓋宮に都が戻る形となったのです。

やばいぞ日本!白村江の戦いによる遷都【飛鳥板蓋宮から近江大津宮】

こうして結局飛鳥に都が戻りましたが、663年に入ると日本を揺るがす大事が起こってしまいます。この頃日本のお隣である朝鮮半島では日本と友好的な関係を結んでいた百済が攻め滅ぼされていました。日本はこの年に百済復興を掲げて唐と新羅に戦争を挑むことになるのですが、白村江付近での海戦で大敗。いわゆる白村江の戦いによってこれまで積み上げてきた日本の朝鮮半島における利権は全放棄せざるおえなくなってしまい、さらにはこの時アジアの大帝国であった唐と敵対関係となってしまいました。

これは日本からしたら滅亡の危機。中大兄皇子はこの危機に際して九州に防人という兵士を置き、さらに瀬戸内海沿岸を中心に防衛施設を設置するなど唐の攻撃に備え始めました。

このような状況下において中大兄皇子は飛鳥にいると唐に攻撃されると考え都をより奥地であり、さらに琵琶湖に面している大津に遷都。

中大兄皇子はこの近江大津宮にて天智天皇として即位し、大化の改新からの悲願であった日本初の法律である近江令を制定したりするなど日本の中央集権体制をどんどん固めていったのです。

壬申の乱と飛鳥への再遷都【近江大津宮から飛鳥浄御原宮】

671年これまで朝廷を支配していた天智天皇が崩御。その跡目争いとして天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の息子である大友皇子が日本を二分する内乱を起こしました。これが古代日本における最大の内乱である壬申の乱と呼ばれる内乱でした。

この戦いにおいて大海人皇子は隠棲していた吉野から兵を挙げて東国の境目である不破関を占拠。東国を抑えたことによって有利となり最終的には壬申の乱は大海人皇子側が勝利して大海人皇子は天武天皇として即位することになります。

天武天皇は天智天皇の息がかかっている近江大津宮から飛鳥浄御原宮へと遷都。わずか5年で近江大津宮は廃都となり、再び飛鳥が都に返り咲いたのでした。

天武天皇は妻である持統天皇とともに八色の姓を制定。

天智天皇からの悲願である中央集権国家への第一歩を歩むことになるのでした。

日本初の本格的な都【飛鳥浄御原宮から藤原京】

古代日本の制度を確立した天武天皇は686年に飛鳥浄御原宮にて崩御。その後は妻である持統天皇が日本を動かしていくことになります。持統天皇は夫が残した一大事業を引き継ぎ、夫と共に制定しようとした飛鳥浄御原令を発布。さらに唐に習った都を作ろうと日本初の都城制による都藤原京を690年に着工をはじめます。

そして四年後の694年に持統天皇は飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都。

この頃の唐の都であった長安をモデルとした条坊制がとられ、日本初の本格的な都が作られたのでした。

そして、日本の中央集権化も着々と推し進められていき、701年に大宝律令が刑部親王と藤原不比等によって制定。これによって中央集権国家の日本が確立されたことになるのです。

なんと壮大な平城京【藤原京から平城京】

image by PIXTA / 41228662

こうして日本初の都城制によって建設されていった藤原京でしたが、日本が急速的に発展を遂げるようになったことから結局、707年に藤原京よりもふさわしい地に都を移そうという計画が持ち上がり、3年後の710年に平城京に遷都。

この平城京への遷都によって日本は奈良時代へと突入していくことになります。

平城京は藤原京のような中央に宮殿がある方式ではなく、北側に宮殿を置き、その中心部に通っている朱雀大路を中心にして条坊制が築かれていました。さらに、この平城京の時代の特徴として寺の建設が多かったことがあります。

元々藤原京の時代でも有名な寺は積極的に建てられていたのですが、平城京の場合だとその藤原京付近に建てられた寺を平城京付近に移設。大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺などの今でも名高い寺院などがこの頃移設されるようになりました。これはこの時代の朝廷の仏教の見方が大きく関わることになるのですが、それについてはまた後ほど。

次のページを読む
1 2 3
Share: