平安時代日本の歴史

5分でわかる「紫式部」生涯・性格・名前の由来・彰子との関係などわかりやすく解説

紫式部は、平安時代中期大人気の女流作家です。藤原家出身の彼女は、和歌や漢詩に優れた人々に囲まれて成長し、文学的な才能を開花させました。『源氏物語』を始め多くの作品が、現在も世界中の人々に読まれています。そんな彼女の人生とは、どんなものだったのでしょう。今回は紫式部の生涯を解説します。

1.平安時代最高峰の女流作家は幼い頃から才女だった?

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紫式部(むらさきしきぶ)は、日本最古の長編小説『源氏物語』の作者といわれています。幼い頃から勉強がよくでき、天才といわれる存在だったとか。父親が認めた才能にまつわるエピソードも交え、紫式部はどんな女の子だったかをご紹介します。

1-1.文人家系に生まれた紫式部

紫式部がいつ誕生したかは不明で、天禄元(970)年~天元元(978)年の間とされており、天延元(973)年が有力視されています。父親は官吏で漢詩人だった藤原為時(ふじわらのためとき)です。父の官位は正五位下と下級貴族でしたが、漢詩の学者で文学の能力には長けていました。式部丞(しきぶのじょう:宮中行事などを扱う役人)を務めるほど優れていたとか。

父方の曾祖父には三条右大臣藤原定方(ふじわらのさだかた)と、三十六歌仙のひとり中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)がおり、この二人は紀貫之(きのつらゆき)や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)など、『古今集』の歌人たちの庇護者でした。家系は文学的素養に恵まれていたようです。文学に関しては、サラブレッドといえるでしょう。

1-2.母のいない可哀想な子

母は摂津守の藤原為信の娘で、両親ともに藤原北家(ふじわらほっけ)に属しています。母は、紫式部が4歳の頃に病気で亡くなってしまい、父に育てられました。この頃の女性は身分が高い人しか名前が残っておらず、紫式部の本名もはっきりとはわかっていません。藤原香子(たかこ)という名だったのではといわれています。

中宮辺りが火事になり夜に空が真っ赤になっても、大きな地震が起きても、抱きしめてくれる母はもう紫式部にはいませんでした。幼い頃の紫式部の思いでは、母がいない寂しさと災害の恐ろしさだったようです。でも、母がいないことを不憫に思う父は、人一倍愛し大切に育てたと伝わっています。

1-3.父親も驚愕した天才紫式部のエピソード

紫式部の文学的才能が秀でていたことを示す、逸話がたくさん残っています。その中から、少女時代の才女にまつわるエピソードをご紹介しましょう。紫式部の少女時代は、女性はかな文字を使い、男性は漢文で読み書きをしていました。

父為時が弟の藤原惟規(ふじわらののぶのり)に、司馬遷の『史記』を教えていたときのことです。そばにいた紫式部が先に覚え暗唱したため、娘を見ながら「おまえが息子だったらよかったんだがなぁ」と残念がったとか。このエピソードは、『紫式部日記』に記されています。

1-4.宮廷に興味を持つ紫式部

紫式部が幼少期に暮らした邸宅は、京都御所に隣接する天台宗の寺「廬山寺(ろざんじ)」にあったといわれています。15歳の頃、父が学問を教えていた皇太子が天皇となりました。その花山天皇(かざんてんのう)のもとで、先ほど触れました式部丞を務めています。

紫式部は宮廷に興味を持ち、父が帰ると飛びつくように寄ってきて、質問攻めにしていたとか。父も見聞したことを、困りながらも優しく話したとか。彼女は、目を輝かせて聞き入り、文に書き残していたようです。

父が学者だったことや、先人が書いた書物などを読みあさり、高い教養を身に付けています。仏教の経典や日本書紀を始め、難しい父の蔵書など女性が読まない書物も読破していました。食事を忘れ寝る間も惜しんで読書を続け、気に入った文章は暗記していたとか。他にも、和歌や琴の才能もあったようです。やっぱり才女!

ちょっと雑学

平安時代の中流や下級貴族の娘たちは、親から仏典や和歌や漢文などの教育をされました。貴族たちが和歌や学問に秀でた人を高く評価したので、評価が確立されると后に仕える女官になり、運が良ければ引き立ててもらえたのです。

この頃は、中国から入ってきた漢字を簡略化した日本独自のかな文字が誕生し、彼女たちが好んだひらがなを使った多くの文章が書かれました。このような時代で、宮廷には高い知性と教養を身に付けた女性が自然と集まったようです。

1-5.上級貴族の雅な花見に感動

寛和2(986)年に、后に身罷られ悲しむ花山天皇が出家します。これは、関白藤原兼家(ふじわらかねいえ)が、自分の孫を天皇に付けたいと言葉巧みに唆したからだとか。その一条天皇が即位すると、父為時はたった2年で失職します。父以上に残念がったのは紫式部。宮廷のことを聞けないという理由でした。それから10年余り、父は宮中の雑用をして暮らします。

そんな時叔父の為頼が、関白になった藤原道隆の花見の宴に招かれ、紫式部を誘ってくれたのです。広い御殿には、十二単衣を着た綺麗な女房が長い廊下を行き交っています。たくさんの桜の樹からはらはらと花びらが舞う美しい築山が備わる庭に、響き渡る雅楽の音などまるで別世界だったのです。

この時、紫式部は同じ藤原家でも、上級と下級ではこれだけ違うのかとため息をついたとか…。家に帰ると、宮廷での光景を思い出し、宮廷を舞台にした物語をあれこれ考えたようです。

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