平安時代日本の歴史

紀貫之が書いた『土佐日記』と彼の生きた平安前期の歴史についてわかりやすく解説

平安京に都が移されて140年ほど経った平安時代中期。現在の高知県にあたる土佐で国司を務めていた紀貫之が書いた『土佐日記』は、仮名文字で書かれた画期的な作品です。紀貫之が生きた平安前期は藤原氏が中央の権力を握る一方、地方では政治が乱れ武士が台頭し始めた時代でした。今回は紀貫之が生きた平安前期と『土佐日記』の世界についてわかりやすく解説します。

『土佐日記』と紀貫之

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『土佐日記』は、土佐国司として現在の高知県に赴いていた紀貫之が、任期が終わり京都にかえるまでの旅程を書いた日記文学です。当時の貴族は漢文で日記をつけるのが当たり前。仮名文字で記録を残すのはとても珍しいことでした。当代一流の歌人でもあった紀貫之が書いた『土佐日記』は、のちの時代に描かれた他の仮名文字文学に大きな影響を与えます。

『土佐日記』の筆者、紀貫之はどんな人?

紀貫之が属する紀氏一門は古代から続く名族でした。奈良時代末期から平安時代初期にかけて、紀氏は参議や大納言といった高官に就任。政界で大きな力を持ちました。

応天門の変で紀夏井が流刑にされたのち、紀氏は衰退。10世紀に入ると紀貫之や紀友則などの文人・歌人を輩出する家柄となりました。紀貫之自身は醍醐天皇の命で編纂された『古今和歌集』の編者となります。

紀貫之が書いた『古今和歌集』の仮名による序文「仮名序」は「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という一文からわかるように、仮名文字で日本人の心をうたうことを述べており、後世の文学に大きな影響を与えました。

天皇の命令で編纂される勅撰和歌集にはたびたび紀貫之の和歌が採用されます。その数、なんと435首。紀貫之は後世まで影響を与える名歌人だったのですね。

あえて仮名文字で書かれた『土佐日記』

紀貫之は土佐から京都に帰る途中の出来事を書いた『土佐日記』を自分の日記としてではなく、紀貫之一行に従う女性の目線で書いています。そのため、書き手は女性、使う文字は仮名としました。

当時の貴族の男性は漢文と補助的に使うカタカナで記録を残すのが一般的。それに対し、女性はひらがなを用いて記録を残します。また、ひらがなは和歌・消息文などにも使われました。ひらがなは音だけを表す表音文字なので、漢字で表記しにくい日本古来の大和言葉を書くのに向いていたからです。

貴族で朝廷の役人でもあった紀貫之が本来使うべきは漢字とカタカナ。しかし、歌人でもあった紀貫之は心情を表現しやすいひらがなを用いたかったのかもしれません。そのため、ひらがなを常用していた女性を筆者とすることで、ひらがなの『土佐日記』を書きやすくしたのかもしれませんね。

『土佐日記』以外の仮名文字文学

ひらがなの発達は多くの文学作品を生み出す母体となりました。日本最古の物語文学とされる『竹取物語』、紫式部が書いた平安時代の貴族社会を舞台した長編ドラマ『源氏物語』、歌人在原業平をモデルに書かれ、作品の随所に和歌が掲載された『伊勢物語』などの物語文学は漢字とひらがなで書かれた長編小説です。

また、『土佐日記』のような日記文学も盛んになります。10世中ごろの権力者、藤原兼家の妻の一人である藤原道綱母が書いた『蜻蛉日記』、平安時代きっての女流歌人だった和泉式部が書いた『和泉式部日記』、地方国司だった菅原孝標の娘が、父の任地から京都に戻った時からの自分の人生を回顧した『更級日記』など数多くの仮名文字で書かれた日記文学が生み出されました。

『土佐日記』が書かれたころの日本

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紀貫之が生きた9世紀中ごろは、日本の社会や政治が大きく変化しつつある時代でした。藤原氏が他の一族を排斥して権力を独占する一方、地方の政治は現地にいる国司に委ねられ、国司は一定の税金を朝廷におさめることを条件に地方政治で大きな裁量権を認められます。国司による自己中心的な政治は地方の開発領主などの反感を買い、やがて武装した開発領主たちである武士の反乱を招きました。

藤原北家による他氏排斥

奈良時代から有力貴族だった藤原氏は、更なる権力強化のために他の一族を朝廷の中枢から排除していきます。842年の承和の変では藤原良房が伴健岑と橘逸勢に謀反の疑いをかけて排除しました。また、良房は864年の応天門でおきた火災は大納言伴善男の仕業であると言う密告を受けて伴善男の排除にも成功。これらの事件により、古代以来の名族である伴氏は失脚してしまいました。

良房の養子で跡継ぎとなった基経は、宇多天皇が出した勅書にあった「阿衡」という称号をめぐって天皇と争い、宇多天皇に勅書を撤回させ自身の権威を高めます。

宇多天皇は菅原道真を取り立てて藤原氏に対抗しようと試みますが、藤原時平の陰謀で道真を九州の大宰府に左遷。紀貫之の時代になると、藤原氏に対抗できる氏族はいませんでした。

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