平安時代日本の歴史

5分でわかる「紫式部」生涯・性格・名前の由来・彰子との関係などわかりやすく解説

4-1.紫式部の性格と後輩思いのエピソード

「日本紀の局」というニックネームは、天皇が才能を認めて付けたのですが、女性たちの嫉妬により陰口の対象になります。漢詩を読めることを隠して、彰子に漢文学の教師をこっそり行ったのも納得ですね。

奈良興福寺から八重桜が宮廷に献上されたときのこと、桜のお礼の歌を詠む大役が紫式部に課せられるも、新入りの伊勢大輔(いせのたいふ)に譲ったというエピソードが残っています。大きな手柄を自分の認めた後輩に譲るという、後輩思いの一面もあったようです。

この時、大助が読んだ歌は、

「いにしえの 奈良の都の八重桜 きょう九重に 匂いぬるかな」

伊勢大輔は、紫式部の期待通り見事な歌を詠んで、人々を感心させました。紫式部は目立つのを嫌い、控えめに暮らしていたことがわかります。この件を感謝した大輔は、紫式部を姉のように慕いました。「付き合ってみると、色々と気の付くいい方よ!」周囲の評判もよくなったようです。

4-2.紫式部の名前の由来

紫式部という名前は、死後に付けられたという説があります。現に、紫式部となる前の女房名(にょうぼうな)は、「藤式部(とうのしきぶ)」でした。これは、父藤原為時の、苗字「藤原」と式部省での官職が式部丞だったことから「藤式部」と呼ばれたようです。

紫式部となった説は色々あり、当時珍しい紫色の冠にした呼称で呼ばれたとか、源氏物語中の「紫の上」という人物に由来しているとか。『紫式部日記』の中には、寛弘5年(1008)に行われた宴の最中に酔っぱらってしまった藤原公任(ふじわらのきんとう)が、「若紫はいませんか?」と紫式部に聞いたと書いています。この若紫は、源氏物語の「若紫」の巻のことで、主人公の名前が「紫の上」で、ここから呼ばれたという説も。

この事件は、彰子の皇子誕生50日目の祝いの席でのことで、式部は自分のことと分かっていても、公衆の面前で揶揄われるのが嫌だと隠れていたとか。

5.紫式部の晩年は?

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紫式部の晩年は、はっきりとわかっていません。源氏物語が完成した後に、宮廷を退職しました。しかし、再び宮廷に出仕したようですが、いつ退職したか不明です。京都の墓所は紫式部が晩年に暮らした、かつて大徳寺の別宮雲林院があった場所で、一般の人も参拝することができます。お墓や石塔、顕彰碑や紫式部の生前を偲ぶ小屋も残されているので、訪れてみてはいかがでしょう。

5-1.紫式部の生涯を語る『紫式部集』

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紫式部が宮廷から去った時期や亡くなった時期などは、わかっていません。彰子の子ども「敦成親王」が、後一条天皇に即位した頃に亡くなったという説や即位とほぼ同じ時期に娘大弐三位に仕事を引き継ぎ宮廷から去ったという説、兄弟の惟規や親友の小少将の君などが同時期に亡くなっており、出家して友人の供養をしながら晩年を送ったとの説もあります。

中古三十六歌仙のひとりの紫式部が書いた歌は、『小倉百人一首』にも収められました。『紫式部集』には、子ども時代から晩年までの、さまざまな歌が選ばれています。幼馴染みとの再会と別離を読んだ歌など、興味深い歌が多く収録されました。

2000年「沖縄サミットの記念紙幣」の二千円札の裏面には、「源氏物語絵巻」の第38帖「鈴虫(2)」の絵と、第38帖「鈴虫(1)」の詞書(ことばがき)が印刷されています。右側下部には、紫式部の姿が描かれており、彼女の控えめな性格を象徴しているようです。

5-2紫式部の墓所

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冒頭で触れた京都の墓所は、現在、島津製作所の紫野工場の敷地内にあります。もう一人、紫式部と恋仲との噂がある「小野篁(おののたかむら)」の墓が、隣に作られたようです。本当かどうかは不明ですが…。

小野篁は、閻魔庁で閻魔大王の補佐役をしていたようで、二人を一緒に祀ることで紫式部の供養になると考えられたからとも伝えられています。晩年は、『源氏物語』を書いたことで非難されていたとの説もあるからです。小野篁は、小野小町の祖父ともいわれています。

世界の人々からも認められた紫式部の作品を読んでみてはいかがでしょう。

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ユネスコの「偉人年祭表」1966年版に、日本人で初めて加えられています。これを機にぜひ紫式部の作品など、桓武天皇が政治の立て直しを掛けて京に遷都した平安時代の古典を読んでみてはいかがでしょう。往時の宮廷での暮らしぶりや考え方なども垣間見られ、往時の優雅な宮廷生活を疑似体験できるはず。

 

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