日本の歴史江戸時代

家康・秀忠の時代に発布された「武家諸法度」とは?内容・改変をわかりやすく解説!

1615年、徳川家康は大坂城を攻略し豊臣氏を滅ぼしました。家康は徳川の世を盤石のものとするため、諸大名を統制するための法令を作成します。それが、武家諸法度です。家康は諸大名を京都の伏見城に集め、将軍徳川秀忠の命という形で武家諸法度を諸大名に申し渡しました。武家諸法度は江戸中期まで、時代の変化にあわせて改変されてきました。今回は武家諸法度の内容と、改正による変化についてまとめます。

家康が秀忠の名で出した武家諸法度「元和令」

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大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川家康ですが、すでに齢70を越えていました。自分の世性が長くないことを悟っていた家康は、自分の死後も徳川氏の支配が続くよう急ピッチで幕府のしくみを整えます。特に、家康が注意を払ったのは大名たちの統制でした。家康が大名たちをコントロールしようとして出した武家諸法度の内容や目的などについてまとめます。

武家諸法度「元和令」の大まかな内容

家康は、将軍秀忠の名で大名たちが守るべき掟である武家諸法度を発布しました。武家諸法度は、その後何度か改正されたため、家康が出した武家諸法度を発布されたときの年号をとって「元和令」といいます。起草者は家康のブレーンで黒衣の宰相の異名を持つ金地院崇伝

武家諸法度では、大名は文武弓馬の道に励むべきであることや犯罪人をかくまってはならないことなどが定められました。特に重要な規定は、大名同士の勝手な結婚の禁止一国一城令の徹底です。

大名の勝手な結婚は、同盟関係に繋がり徳川幕府を打倒する勢力をつくるもとになると考えられました。また、一国一城令には大名の居城以外の城を壊させることで大名の軍事力を弱める目的もあります。このように、家康・秀忠時代の武家諸法度は諸大名が幕府に歯向かわないよう、力で抑え込むことを主眼としていました。

武家諸法度により改易された福島正則

幕府は武家諸法度の内容に背く大名に厳しい態度で臨みました。武家諸法度に背いたとして改易(領地削減や取り潰し)された大名の一人が福島正則です。福島正則は豊臣秀吉によって引き立てられた武将でしたが、関ケ原の戦いでは家康に味方し、広島50万石を与えられていました。

1619年、台風の風水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸や石垣を幕府の許可なく修築したことから、武家諸法度違反に問われます。正則は修復願を提出していましたが、幕府の許可は下りていませんでした。

結局、正則は広島50万石を没収され、信濃川中島4万5千石に大幅減封されます。正則の死後、幕府の検死役が到着する前に遺体を火葬したことから、福島家は残った領地もすべて没収され取り潰されてしまいました。

幕府政治の移り変わりと武家諸法度の内容の変化

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江戸幕府の政治が安定化してくると、武家諸法度の内容も時代にあわせて変更されます。3代将軍家光は大名統制を強化するため、参勤交代などを追加しました。4代家綱は島原の乱を受け、キリスト教の禁止を強化。5代綱吉は文治政治への転換を武家諸法度で宣言します。6代家宣の武家諸法度は新井白石が起草したため儒教色が強い内容になりました。武家諸法度の内容変化についてまとめます。

3代家光時代に出された武家諸法度「寛永令」

3代将軍徳川家光は、1635年に武家諸法度を改訂します。家光の改定は「寛永令」といいました。最も大きな変更は参勤交代の制度化です。武家諸法度「寛永令」では、大名は領地滞在が1年、江戸滞在が1年と定められ妻子は強制的に江戸に居住させられました。

参勤交代は大名たちにとって大きな経済的負担となります。と同時に交通の活発化をもたらし、街道や宿場の整備が進みました。五街道や脇街道が整備された理由の一つは、参勤交代で大名が頻繁に江戸と領国を行き来するからです。

また、大名が500石以上の大型船を建造することを禁止。同じ年に日本人の海外渡航と帰国の全面禁止されていることと併せて考えると、大船建造禁止が鎖国強化の一環であったことがわかります。

さらに、「万事江戸の法度のごとく、国々所々においてこれを遵行すべきこと」とあるように、諸大名の領国である藩でも江戸の法令を守るよう通達されました。幕府は、基本的に藩の政治に口を出しませんが、藩の政治は幕府の法令に従うべきだとの考え方を明瞭にします。

4代家綱時代に出された武家諸法度「寛文令」

4代将軍徳川家綱は、1663年に武家諸法度を改定します。家綱の改定「寛文令」と呼ばれました。この武家諸法度で、キリスト教の厳禁が正式に盛り込まれます。きっかけとなったのは間違いなく島原の乱でしょう。

島原の乱、または島原・天草一揆は島原藩領の島原地方と唐津藩領の天草群島の農民たちが、藩の圧制に抗議して立ち上がった反乱です。

もともと、これらの地域はキリシタン大名の領地だったため、キリスト教の信者が多数いました。島原藩・唐津藩はキリスト教の信仰を徹底して弾圧。さらに、過酷な年貢の取り立ても行いました。島原・天草の農民たちは益田四郎時貞という16歳の少年をリーダーとして反乱を起こします。

幕府は原城に立てこもった一揆軍鎮圧のため、大軍を動員しますが苦戦。老中松平信綱の派遣によりようやく鎮めました。武家諸法度にキリスト教の禁止を改めて盛り込むことで、各大名にもキリスト教禁教を徹底させ、島原の乱の再発を防ごうとしたのでしょう。

5代将軍綱吉時代に出された武家諸法度「天和令」

5代将軍徳川綱吉は、1683年に武家諸法度を改定します。綱吉の改定は「天和令」と呼ばれました。天和令はそれまでの武家諸法度で繰り返されてきた「文武弓馬の道を相嗜むべきこと」という文言を「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と改めます。

幕府は大名はいざという時のために、戦えるようにせよという考えから、大名がすべきことは武芸だけではなく学問にも力を入れ、礼儀正しくすることだと方針転換しました。

学問(この場合は儒教の中でも朱子学)中心に世の中を治めることを文治政治といいます。江戸幕府の政治方針は武力で諸大名を押さえつける武断政治から、学問と礼儀を重んじる文治政治へと転換されました。

また、これまで制限してきた大名が死ぬ間際に養子を迎える「末期養子」を容認。これも、政治の秩序を大事にする文治政治ならではの考え方に由来します。

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