3-2.『源氏物語』が人生を変えた?
『源氏物語』の完成は寛弘7(1010)年で、紫式部が38歳のころのようです。主人公の光源氏と女性たちの恋愛物語は、世の中に対する「あはれ」が描かれており、すぐに宮廷内で人気の読み物となりました。
光源氏の恋愛遍歴と宮廷内の栄華の様子から始まり、罪の報いによる苦悩を抱えながら死にゆく姿が書かれています。後半は妻の密通で生まれた薫大将の悲恋の物語です。実は、物語を通して、心の通う友人を探していたとの説もあります。
『源氏物語』の評判を聞きつけた、右大臣の藤原道長が紫式部の才能を見抜いたのです。道長は、寛弘2(1005)年に一条天皇の后で娘の中宮彰子(賢子も後に仕える)の女房に推薦します。実は、先ほど藤原道長の妾となったとの説もあると触れました。このことから紫式部は、「表では観音の化身といわれるも、裏では人の心を惑わした罪で地獄に落ちた」といわれています。
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ちょっと雑学
『源氏物語』は、世界最古の長編小説です。全54巻に及び、登場人物は500人を超えています。平安時代には宮廷に仕える女性たちの間で「女房文学」が盛んに書かれました。しかし、『源氏物語』ほど人気のあった読み物は他にはないといわれています。
登場人物の内面の描写が見事で、貴族たちの因果や宿命などを仏教の世界を基礎に描いている点が高評価の所以でしょう。現在も、翻訳され世界中で読まれています。こんなに昔の物語が、現在も読み継がれるなんて素晴らしいことですね。
3-3.彰子と紫式部の関係は?
道長が娘の彰子を一条天皇の后にした理由は、ただ藤原一族の頂点に立ちたかったからです。藤原氏のトップともなれば、権力を牛耳れ政治も思いのまま。やな感じですよね。道長は自分の姉栓子皇太后の力を借り、彰子を后にします。
一条天皇には既に複数の夫人が複数いました。その中に、『枕草子』を書いた清少納言が仕える中宮定子がいたのです。天皇の目が我が娘彰子に向くよう、清少納言を超える才女を、女房に置きたいと思いました。皇后となった定子より早く皇子を生んでくれるように画策したのです。清少納言を上回る女官として送り込んだということでしょう。
紫式部の宮中入りの話を持ち掛けられた父為時は、宮中仕えは何かと気を使うと嫌がります。しかし、昔越前の長官になったとき、尽力を得た恩人道長からの頼みで無下に扱えなかったのです。度々道長の使いが来ていたこともあり、彰子中宮の女房としてとうとう宮中へ上がりました。
3-4.定子に負けない后教育
宮中での紫式部の役割は、彰子を定子に負けない后に教育すること。彰子に唐の詩人で白楽天(はくらんてん)が書いた『白氏文集(かくしもんじゅう)』を進講する教師も務めました。この頃女性が漢文を使うことを良く思わない人もおり、講義はこっそりと行われたとか。本人は嫌がっていたようですが、日本書紀を読めたことから一条天皇に「日本紀の局」とも呼ばれていたようです。
昼は彰子のために働き、夜は『源氏物語』の執筆と多忙な毎日を送っています。そんな時、道長最大の願い、彰子が身籠ったのです。
3-5.『紫式部日記』の誕生
娘の妊娠に大喜びの道長は、彰子のことや宮廷のことを日記に纏めてほしいと頼んだのです。これが『紫式部日記』で、寛弘5(1008)年の秋から寛弘7(1010)年のお正月までの間の出来事が書かれています。中宮彰子のことや宮廷内の華やかな生活ぶりが、克明に描かれており、単なる日記というより、エッセイとしても楽しまれました。彰子は無事、皇子を生んでいます。
中には、中宮彰子の女房の赤染衛門(あかぞめえもん)や和泉式部(いずみしきぶ)、清少納言(中宮定子の女房)のことも描いており高い評価を得ているようです。紫式部は『紫式部日記』の中に、「したり顔にいみじう侍りける人」と清少納言を酷評しています。
二人はライバル的存在とされていますが実際には会ったことはなく、紫式部が出仕する5年前に引退していた清少納言は、『枕草子』には紫式部のことは書いていません。
4.紫式部の性格と名前の由来は?
小さなころは、明るく何でも知りたがるお茶目な女の子でした。宮廷に仕えるようになり、妬み嫉みの中で次第に内向的な女性になったようです。他の女官たちからも、気難しく、とっつきにくそうな人と悪口が後を絶たなかったとか。でも、紫式部は、周りに気を使い、自分を出さないように暮らしていたようです。ここでは、式部の性格と名前の由来のエピソードをお話ししましょう。