平安時代日本の歴史

5分でわかる「紫式部」生涯・性格・名前の由来・彰子との関係などわかりやすく解説

2.紫式部の結婚って?

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紫式部の結婚歴は、1回というのが一般説。でも、以前に紀時文と結婚していたとの説もあります。前夫と死別した後、藤原道長からの誘いを断ったというエピソードが『紫式部日記』にかかれているのです。しかし、断ったという記述は1回のみで、その後プロポーズを受けたという説もあり、後に藤原道長の妾になったともいわれています。

2-1.都を離れ越前の地へ

長徳2(996)年に、父為時が大国越前(現:福井県)長官職に任命されました。兄弟たちの母親代わりを務めていた24歳の紫式部も同行しています。この越前は、紫式部の生涯で唯一京から離れて暮らした場所です。道中青く輝く琵琶湖の美しさに、都に未練のあった紫式部の心が洗われたとか。また、都の外は本当に広いと、感動したようです。

琵琶湖を船で渡り降りた塩津浜から輿に乗りますが、ここが深坂峠越えという一番の難所。都で生活の辛さを味わった紫式部ならではの歌を詠んでいます。

「知らぬらむ 往来にならす塩津山 世に経る道は 辛きものぞと」

(あなた方の通いなれた山道も辛いけど、世の中という道はもっと辛く厳しいものですよ。)

これは、『紫式部集』に収録されています。

彼女が住んだ福井県武生市には紫式部公園があり、彼女の金色の立像があるのです。実は、『源氏物語』の誕生には、この地が深く関わっています。

2-2.紫式部の結婚相手は20歳も年上

長徳4(998)年に父の友人で遠縁だった、貴族の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)のもとに嫁ぐため、単身で京に戻ります。宣孝は約20歳も年上。既に数人の妻と子どもがいたようで、結婚生活は不安定だったとか。夫婦仲は悪くなく、夫婦げんかを和歌で行っていたとの説もあります。

結婚の翌年に、藤原賢子(けんし)という娘を授かりました。彼女は後に、大弐三位となり、中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)の女房となります。夫の宣孝は、残念なことに疫病にかかり、結婚から3年後の長保3(1001)年4月25日に病死しました。

この時、紫式部は

「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦

(親しかった方が煙となって消えた夕方以降「睦まじ」という音に通う「陸奥(むつ)」の国の「塩釜の浦」でたなびく塩焼きの煙までも慕わしく感じられる)

という和歌を詠み、『紫式部集』に収めています。

3.未亡人となった紫式部の人生って?

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未亡人になった紫式部は、寂しさから物語を書き始め、あの有名な『源氏物語』が生まれます。中宮彰子の女房になり宮廷生活が始まりました。宮廷内でも文学的才能は随一で、漢文が読める紫式部はすぐに頭角を現し、中宮彰子の教師にも任命されます。出仕後も『源氏物語』の執筆は続けました。

3-1.夫の死の寂しさから『源氏物語』は生まれた?

喧嘩もたくさんした夫でしたが、急にいなくなると寂しいもの。恋しささえ芽生えていたとか。娘と年老いた父を抱えてどうやって生きて行こうかと思い、ため息をついたときでした。ふと頭をよぎったのが、藤原道綱母が21年に渡る夫婦生活を書いた『蜻蛉日記(かげろうにっき)』。これは、日本初の女流日記といわれています。

自分の思いや悲しさを物語に書きたいとの思いが湧いたようです。これが、貴族社会を舞台に、貴公子としてアイドル的な存在だった光源氏の浮世離れした生き方を描いた長編小説『源氏物語』の始まり。『紫式部日記』の中に、孤独と癒しを求め書き始めたと記しています。

嘘を書かないと始まった『蜻蛉日記』と違い、思いっきり嘘を書いちゃうと始めた『源氏物語』は、ストレス発散材料だったのかもしれませんね。

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