1-6.大奥の崩壊
大奥は十五代将軍慶喜が瓦解すると共に幕を閉じました。しかし、十三代将軍家定のころから、徳川政権の雲行きは怪しかったといわれています。家定は病弱で後継ぎがいないまま、35歳で逝去したのです。その後を、紀州和歌山藩主の徳川斉順の長男家茂が、十四代将軍になっています。
しかし、彼の正室は、孝明天皇の異母妹和宮でした。この結婚が、大奥に波瀾を巻き起こします。和宮は、大奥の生活様式を無視し、御所風の生活様式を貫こうとします。姑の天璋院も黙認できずバトルが起り、大奥全体を巻き込んだとか。
家茂が亡くなると慶喜が将軍になります。しかし、将軍家の難局打開のために奔走しており、江戸城に入ることができません。もちろん、御台所も。御台所不在の大奥となってしまうのです。更に財政難の施策として幕府は、大奥に倹約令をだしています。でも、討幕後の、慶応4(1668)年に江戸城が明け渡され大奥も崩壊しました。
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2. 百花繚乱!大奥で起こった事件10選
老中さえも口出しできないほどの、権力を持っていたとされる大奥。華やかな大奥内には、様々な陰謀が渦巻き多くの事件が生まれました。先ほどお話しした、お江与の方と春日局のバトルも、事件のひとつですね。たくさんの事件の中には、現在も冤罪といわれる謎めいた内容の事件もあります。
その1. 大奥最大のスキャンダル!絵島生島事件
「絵島生島事件」を知らない人は、いないのでは?スキャンダラスな事件が頻繁に起こった大奥の中でも最大の事件です。しかも、事件の真の問題点はお家騒動で、絵島がはめられただけの冤罪だとの声も上がっています。
江島生島事件とは?
正徳4(1714)年正月12日に、大奥御年寄の絵島が月光院の名代で上野寛永寺の綱吉廟への参内に行きました。その後で、山村座で芝居見物をしながらの酒宴をして、門限を破ってしまったという事件。
門限だけならそうは咎められませんでしたが、絵島と人気役者の生島新五郎との密会があったとされたのです。疑いをかけられた二人は詰問され、生島は遠島に。絵島は無期拘留となりました。長野県伊那市高遠町には、絵島が61歳で没するまで約20年間幽閉された「絵島囲み屋敷」が残っています。
絵島の謳った歌をご紹介しましょう。
「浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし」
絵島の兄弟縁者はもちろん、生島の芝居関係者など、一節には1500もの人々が罰せられました。絵島の兄白井勝昌(かつまさ)は、死罪になっています。一節によると、絵島に連座して大奥女中67人も暇をだされたとも。
天英院と月光院の対立も関係していた
天英院と月光院は、六代将軍家宣(いえのぶ)の御台所と側室という関係でした。側室の月光院は家継の生母で、二人の確執は周囲が恐れおののくほど熾烈なものでした。絵島は、月光院派の大切な存在で、御台所の天英院一派の策略にまんまとはめられたのではといわれています。
当時、絵島が仕えた家宣の側室月光院が幅を利かせていました。彼女の保護者間部詮房が、政治の実権を握っており、大奥では絵島も怖いもの無しだったのです。御台所の天英院は苦々しく思っており、月光院について我が物顔の絵島のすきを狙っていました。
天英院は、妬みの相手月光院に直接手がだせなくても、絵島ならという思いもあったようです。このような、絵島の油断が招いた事件ともいわれています。絵島にも遠島が言い渡されますが、月光院の請願により、親類へのお預けに軽減されました。
その2.天璋院篤姫と皇女和宮の軋轢
井伊大老が「桜田門外の変」で暗殺されたり、鎖国が解除されたりと混乱の中にありました。そんな幕府の苦肉の策が「公武合体」です。公武合体は、婚姻によって幕府と朝廷の関係を強いものとすること。海外の政略結婚で有名なのは、ハプスブルク家ですね。マリー・アントワネットの母マリア・テレジアは、何人もの娘を政略結婚させています。
十三代将軍家定の正室だった天璋院篤姫と十四代将軍家茂の正室の皇女和宮は、正反対の家柄です。天璋院は薩摩の藩主の分家に生まれ、馴染むまでには家柄のことでも叩かれています。逆に和宮は天皇家に生まれた御姫様で、嫁いでもその公家の暮らしを続けようとしました。そのことで、嫁姑バトルが勃発したのです。
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