流儀の対立が、嫁姑バトルとなり、お付きの女中たちの対立も激化して行きました。しかし、夫家茂の妻への愛情が深く、それに応えるように和宮自身が姑と夫を立てるようになり仲は改善されています。家茂と和宮のおしどり夫婦ぶりは、歴代将軍の中でNo1だとか。天璋院と和宮は江戸幕府が幕を閉じる時も、協力し合って徳川家を守っています。
その3.度重なる御年寄瀧山の受難!実成院VS瀧山
御年寄の瀧山は、家茂の生母実成院(じつじょういん)の乱れた生活ぶりに頭を痛めていました。実成院が大奥に入った理由は、十三代将軍の家茂が誕生したからです。実成院は、大奥に入る前から、日頃の憂さ晴らしにお酒をあおり豪遊する生活を送っていました。大奥に入れば落ち着くものと誰もが思っていましたが、全く改善されなかったのです。
実成院と瀧山との事件は、先ほどお話しした天璋院篤姫と和宮のバトルと同時期に起っています。瀧山が実成院のお酒を飲んで大暴れする姿を、はしたないと諫めるも逆に恨みを買ったのです。
後に瀧山に受難が相次ぎます。何者かに味噌汁に毒を盛られたり、持ち部屋を放火されたりしたこともありました。はっきり確認はできていませんが、実成院の次女の仕業だと伝わっています。自分のするべき仕事をしただけで、毒を盛られるなどの事件が起こるほど幕末の大奥は荒廃していました。
その4.こんな事件起きていいの?将軍綱吉「刺殺」事件
桂昌院を生母に持つ犬公房として有名な綱吉には、起きてはならない大事件が起こっています。それが、将軍綱吉が御台所信子に刺殺されたという事件です。ドラマ『大奥』でも取り上げられ放送された、綱吉の人妻好きが起因しています。
徳川家に長年勤める寵臣牧野成貞の妻阿久里ばかりか、その娘までに手を付けたのです。更に、柳沢吉保の妻染子とも関係を持ちました。吉保の嫡男吉里は、綱吉との間にできた子だといわれています。他にも、表に出ていない不義は数知れず、正室の信子も見るに見かねて諭すも聞き入れられませんでした。
宝永6年(1709)1月10日に信子が決意。「宇治の間」に綱吉を招き入れて刺殺し、その刃で自らの命も立ったという事件です。「宇治の間」は、血の海となっていたとか。もちろん、事実は封印され、麻疹に疱瘡まで患い亡くなったことにされました。
この一件で「宇治の間」は開かずの間となり、建て替えがされた時も何故か「宇治の間」も作られています。 あくまでも綱吉の奇行から出た噂で、本当かどうかは今となっては誰にも分かりません。今でも「宇治の間」にまつわる幽霊話などは、絶えないとか。ご注意を!
その5.大奥きっての悪女!お美代が起こした智泉院事件
下総中山法華経寺の支院智泉院(ちせんいん)破戒僧日啓の娘「お美代」は、天性の美貌と人並み外れた知力の持ち主で、中野播磨守に目を付けられ養女となった後「大奥」へ上がりました。 大奥の女中の中でもその美貌と才覚はすぐに評判に。お美代は御中臈にまで出世し、十一代将軍家斉の御手付き中臈となり、寵愛を独り占めにしお腹さまになります。養父も実父も出世しました。
お美代の方の虜になった家斉に、寝間で「智泉院を将軍家の祈祷の場」にとねだったのです。家斉はもちろん承諾。女中たちが祈祷に訪れる寺になります。寺の中では、坊主と奥女中とが通じたり、特別な祈祷をしたりするなど、大奥女中の注目を集めました。酷い有様に摘発の対象となり、日啓とその身内を女犯で処断したという事件です。でも、大奥内のものは処罰の対象にはなりませんでした。悪女お美代の方が起こした事件はまだまだあります。
その6.まだあったお美代の方の職権乱用!感応寺事件
「感応寺事件」も、お美代の方がもとで起こった事件。廃寺だった感応寺を、お美代の方が将軍家斉へのおねだりで再興し、実父日啓が住職となったのです。寺にいる美僧たちとの密会のため、奥女中がひっきりなしに訪れ束の間の息抜きをしました。
そんな時、将軍家斉が亡くなりお美代の方が後ろ盾をなくし、実父の日啓も養父の中野播磨守の運命にも暗雲がたちこめます。老中水野忠邦の命により、大奥から寺に運ばれる長持の中を寺社奉行が改めると、奥女中が出てきたのです。奥女中と美僧たちの密会が露見し断罪されます。
大奥の女中との不義は隠され、僧たちはただの女犯の罪で、遠島を言い渡されました。お美代の方の実父が遠島になってはまずいと、日経は毒殺されたようです。寺社奉行自身に害が及ばぬよう、大奥には罰を与えていません。しかし、大奥御年寄の瀬山は、大奥が乱れている罪による責任を取らされました。
その7 側室お美代の陰謀!でっち上げのお墨付き事件
悪女と呼ばれる理由は、父たちの悪巧みだけではありません。十一代将軍家斉の死は、愛妾お美代の方(専行院)はもちろん、寵臣たちも没落します。自分たちの今後が危ぶまれ、皆必死に知恵を振り絞り、陰謀が企てられました。
十二代家慶を西の丸に隠居させ、十三代目には子供の授からない世子家定を将軍に据えるというもの。その上で、溶姫が生んだ加賀藩の前田犬千代(慶寧)を、将軍家世子とすることでした。所謂お美代の方の孫を世子に迎えるということ。
お美代の方は、危篤の枕元で家斉が「自分の血を引いたものを将軍に」とお墨付きをだしたとでっち上げ、偽のお墨付きを家斉の正室広大院に提出するも相手されませんでした。家慶は自分の命の危険を察知し、家定を一人で西の丸に行かせないよう、また十分周囲に注意するよう忠告します。失敗した水野ら寵臣たちは、家斉の死と共に罷免されました。
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3つ続けば悪女との名が付いても仕方ないですね。お美代の方は、娘の溶姫が引き取り、加賀で余生を送りました。彼女を養うのに、加賀藩の費用から毎年700両が使われていたとか…。