日本の象徴「天皇」の苦難と栄光の歴史とは?わかりやすく解説
天皇を凌いだ藤原家
桓武天皇の死後、朝廷では中臣鎌足の子孫である藤原家の勢力がどんどん拡大していきました。特に第59代宇多天皇の時代となると当時藤原家のトップであった藤原基経は阿衡の紛議と呼ばれる関白に命じられる時の基経の呼び方がふさわしくなかったというなんだかしょうもない事件を起こし、これを押し通します。これは宇多天皇よりも藤原家の方が影響力があるとも見られ、ここから先天皇よりも藤原家の方が力を持っていると思われ始めるようになりました。
そして、その藤原家の最盛期を築き上げたのが藤原道長だったのです。
道長は一条天皇に自分の娘を嫁がせて自分はその外戚となるいわゆる摂関政治を実現。三条・後一条・後朱雀・後冷泉の時代に息子の頼通(10円玉にも描かれている平等院鳳凰堂を建てた人)と一緒に政治を動かしたのでした。
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院政の時代と源平合戦
しかし、そんな摂関政治の時代も後三条天皇が即位したことによって終わりを迎えることになります。実はこの後三条天皇の時、なんと藤原家は天皇の外戚となることができなかったのでした。摂関政治を行うためにはどうしても自分の娘を天皇に嫁がせてその息子を天皇にしなければ始まりません。
そのため、後三条天皇は藤原家の影響力をほとんど受けず、自身は藤原家の好きにはさせないように延久の荘園整地令を発令。藤原家が獲得した荘園を没収する摂関政治の時代なら考えられないことをやり遂げ、摂関政治を没落に追い込みました。
でも、これで天皇に政治の実権が返ったわけではありません。摂関政治に代わって政治を行うようになったのは天皇は天皇でも天皇の父や祖父などの上皇による院政だったのです。
後三条天皇の死後、白河天皇が即位したのですが、白河天皇は自身の息子堀河天皇に譲位したのち、院と言われる場所で政治をおこなるようになりました。さらに、白河天皇の頃になると元々天皇の警護をしていた武士が台頭。のちに源平合戦と呼ばれる源氏と平氏の争いが起こり、その戦いに勝利した源氏がやがて政治の権力を握ることになるのでした。
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武家社会における天皇【鎌倉時代から江戸時代まで】
源平合戦において勝利した源氏。そして1185年には鎌倉に初めての武士政権である鎌倉幕府が成立しました。しかし、この鎌倉幕府の成立は上皇による院政にとっては邪魔でしかありません。当時、院政を行っていた後鳥羽上皇はこの状況に待ったをかけるかのごとく、1221年に後鳥羽上皇は源氏の代わりに政権を握り始めた北条氏の追討を行おうとしました。これがいわゆる承久の乱です。しかし、承久の乱は後鳥羽上皇の敗戦に終わり、後鳥羽上皇は隠岐に配流されてしまい、返って北条家は京都に六波羅探題を設立。天皇の政治的権力を奪い取ったのでした。
こうして天皇家は暗黒の武家社会に突入していくのです。
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二つに分かれた天皇家と建武の新政
こうして承久の乱によって政治的権力を失ってしまった天皇家。さらに鎌倉時代後半となると第89代目の後深草天皇が後継者の座を曖昧にしたため後深草天皇の家系である持明院統と亀山天皇の大覚寺統の二つに分裂。それぞれの血統がかわりばんこで天皇となる両統迭立が始まりました。
しかし、この両統迭立によって鎌倉幕府は崩壊していくことになります。第96代天皇となった後醍醐天皇は自身が中継ぎの天皇という地位に不満を持ち始め幕府を倒す計画を立てていきました。この倒幕の計画によって鎌倉幕府は崩壊。建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇の親政が始まったのです。しかし、この親政は自身の身の回りの公家しか優遇しなかったことによって失敗。足利尊氏が離脱して代わりに持明院統の光厳上皇を擁立。こうして時代は天皇が2人いる南北朝時代へと突入していくことになるのでした。