大政奉還と王政復古の違いは何だったのか
大政奉還と王政復古は、明治維新の中で重要な節目となっています。立場の違う徳川慶喜と薩摩・長州がそれぞれに出した結論だったのです。基本的には、その違いは、徳川慶喜と薩摩、長州との権力争いと言えなくもありませんが、日本を近代国家に生まれ変わらせる上では、避けては通れない道だったのかも知れません。ただ、坂本龍馬が思い描いたように、静かに徳川幕府の幕引きを行って、近代国家に生まれ変わることができなかったのかという疑問もあります。
しかし、徳川慶喜はあくまでも自身と徳川家が政治の中心に居続けることを画策し、その慶喜を強く恨んでいた長州や薩摩との遺恨は、大政奉還だけは済みませんでした。やはり、王政復古の大号令が幕府政治を終わらせるためには必要だったのです。
大政奉還と王政復古の違いから見る対立の必要性
大政奉還と王政復古は、二つの異なる立場から出された新しい政治形態を示すものです。しかも、わずか1ヶ月半の間に両方ともに出されています。結局、天皇をうまく利用した岩倉・薩長連合が勝利をおさめましたが、近代日本の方向を決める出来事だったと言えるのです。現代の日本でも、与党と野党の対立がありますが、どちらかというと一方向に向かいがちで、牽制機能が著しく低下しています。違う立場からの意見も必要な時もあることを再認識する時期に来ているのかも知れませんね。
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