王政復古による大政奉還の無力化の狙いと倒幕
徳川慶喜によって大政奉還という奇策を仕掛けられた西郷、大久保、桂などと、幕府権力を奪って新しい政治を狙っていた岩倉具視は、対抗措置を模索します。その結果、1ヶ月半後に出されたのが、王政復古の大号令でした。
岩倉具視という人物と薩摩、長州の接触
岩倉具視は、もともと中堅公家でしたが、天皇家と近い侍従を経験しており、謀略好きでも知られた人物でした。孝明天皇や明治天皇に仕え、身分の割には三条実美などとも繋がり、実際の政治的な手腕を発揮したのです。その岩倉具視に近づいたのが、薩摩の西郷、大久保、長州の桂小五郎でした。一時は都の外の岩倉村に蟄居させられていた岩倉具視を復帰させて、天皇の偽勅許を出させたりして、徳川慶喜に対抗しようとしていたのです。
岩倉具視も、孝明天皇の崩御の中の朝廷で、まだ若い明治天皇に近づき、権力を持っていきました。(岩倉具視の孝明天皇暗殺説もあったほどです。)
即位したばかりの明治天皇と岩倉具視の関係
孝明天皇が崩御されて、天皇に即位された明治天皇は当時まだ14歳でした。その明治天皇のお側に仕えるようになった岩倉具視は、天皇を操って、薩摩、長州とともに徳川幕府、徳川慶喜を追い詰めていったのです。王政復古の大号令にしても、まだ天皇になって1年で15歳になったばかりの明治天皇にはっきりとした意志があったとは考えにくいと言えます。恐らく、岩倉具視が天皇に徳川幕府の弊害を吹き込んだと考えるべきでしょう。
鳥羽伏見の戦いによって実権を握った岩倉具視と薩摩・長州
王政復古の大号令が出た同じ1868年1月に、大阪に追い出されていた徳川慶喜は、幕府軍に京都奪回を命じ、鳥羽伏見の戦いが始まります。最初は、戦力的に上回っていた幕府軍でしたが、岩倉具視の機転によって、新政府軍は、錦の御幡(天皇の御印)を軍の先頭に立たせました。すなわち、天皇の幡印に攻撃をすることは朝敵であり、慶喜は攻撃を躊躇してしまい、形勢は一気に新政府軍に傾きます。
しかも、幕府軍の総大将ともいうべき徳川慶喜は、大阪城を脱出して幕府軍艦で江戸に逃げ出したのです。これでは、幕府軍が勝てる訳もなく、新政府軍の圧勝となってしまいました。その結果、明治天皇を中心とする朝廷は、完全に薩摩、長州と岩倉らの新政府が実権を掌握し、徳川幕府倒幕の詔勅を正式に出して、戊辰戦争に突入したのです。
戊辰戦争の結果による徳川慶喜処分
すでに徳川幕府は力を失っており、戊辰戦争では、江戸に向かう新政府軍に抵抗する諸藩の抵抗は少なく、圧勝を繰り返しながら、江戸を囲む形になったのです。最終的には、西郷吉之助と勝海舟の会談によって、江戸総攻撃は回避され、徳川慶喜もすべてを返上して、水戸に蟄居となりました。
これによって、王政復古は実質的にも実現したと言えるのです。
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