幕末日本の歴史江戸時代

「大政奉還」と「王政復古」の違いは何?わかりやすく解説

薩長同盟によって潮目が変わった

この第2次長州征伐前の薩長同盟によって、時代の潮目は完全に変わってしまったのです。日米和親条約以来の、傷ついた幕府の威信を、公武合体などでどうにか保っていた徳川幕府でしたが、第2次長州征伐に失敗したことで、その威信は完全に地に落ちました。それまでは、幕府の命令に従っていた諸藩の中にはいうことをきかない藩も出てきたのです。しかも、第2次長州征伐を強引に進めた徳川慶喜に対する反発が強い中で、15代将軍に就任した慶喜は難しい立場になっていました。

薩摩と長州の倒幕の動きに機先を制した

image by iStockphoto

第2次長州征伐に勝った長州と薩摩は、以後倒幕に舵を切ります。そのような薩摩と長州の動きを知った徳川慶喜は、それを避けるために、薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、福井の松平春嶽、伊達宗城を集めて四侯会議を開催し、対応を相談しました。薩摩とはすでに決別していましたが、土佐の山内容堂から大政奉還の提案があり、薩長の機先を制する意味で、すぐに朝廷に対して大政奉還を申し出たのです。

それによって、各大名の支持を集めて、自分が日本の政治の中心に居座るつもりでした。

徳川慶喜は形を変えても幕藩体制を守ろうとした

従って、徳川慶喜は、いびつになった船中八策に沿った形で、幕府の老中という組織を廃止し、その代わり自分を中心とした議会で実権を握って、幕府はその実行部隊(今の内閣?)として守ろうとしたのです。

坂本龍馬は倒幕のために薩長同盟を画策したのではなかった

image by iStockphoto

幕末の潮目を変える薩長同盟を画策した坂本龍馬は、もともと倒幕には賛成していませんでした。薩長同盟は、あくまでも幕府の長州征伐を食い止めるために行っており、実際の薩長の同盟書にも倒幕の文字は出ていません。

坂本龍馬は、諸外国が日本の植民地化を狙っている中で、国内で戦争を行う愚かさを避けようとしていたのです。従って、徳川将軍も平和的に職を解き、議会政治に移行することを目指していました。しかし、徳川幕府や慶喜に対する薩摩や長州の恨みは凄まじく、結局倒幕に向かってしまったのです。しかも、竜馬が提案した選挙による議会や憲法制定には20年以上かかり、条約改正には30年以上かかっています。

坂本龍馬と薩摩の対立

従って、大政奉還以降、かっては竜馬の新婚旅行を取り持つほどであった、薩摩の西郷吉之助と坂本龍馬の仲は冷え込み、対立するようになってしまったのです。そのため、坂本龍馬が暗殺された後には、薩摩主犯説もでていました。(真相は現在もわかっていません。)

大政奉還は大名連合による政治になってしまった

結局、徳川慶喜による大政奉還は、議会というよりも、老中に代わる従来の諸侯会議を拡大させるだけで、実質的な幕藩体制の維持を図ったものになってしまったのです。それは坂本龍馬の思い描いたものとは違っており、まして倒幕を考えていた薩摩、長州にとっては許せるものではありませんでした。

岩倉具視や西郷、大久保、桂などは、竜馬の船中八策の内容には賛成していましたが、その実現の仕方が違ったのです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: