飛鳥時代の基本情報:時期・場所・特徴など
まず初めに、飛鳥文化が栄えた「飛鳥時代」とはどんな時代だったのか、詳しく見ていきたいと思います。1400年以上も昔のことではありますが、国際色豊かだったと言われる飛鳥時代。遠路はるばる海外から様々な文化が渡ってきて、日本が大きく変化した時代でもあったのです。時代背景と併せて、飛鳥文化の基本情報についてまとめてみました。
いつ頃のこと?飛鳥文化の時代背景とは
飛鳥文化(あすかぶんか)とは、 7世紀前半頃に栄えた文化のことを指します。
女性初の天皇として知られる推古天皇(すいこてんのう:在位期間は593年~628年)の時代が中心です。
この頃、奈良盆地の南部にあった飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村)という地域に都が置かれていたため、この時代を「飛鳥時代」と呼んでいます。時代区分についてはいくつかの説がありますが、一般的には710年に平城京へ遷都されるまでの間を飛鳥時代と呼ぶことが多いです(藤原京に遷都した694年までという見方もあり)。
飛鳥時代の前の日本は、古墳時代と呼ばれる時代が長く続いていました。
稲作が行われるようになり、大きな集落を作って共同で生活するようになった弥生時代の後に続く古墳時代。古墳は当初、天皇や皇族のために築かれていましたが、時代が進むにつれ、地方の豪族たちも古墳を築くようになり、強大な権力を持つ豪族たちが権勢を振るうようになっていきます。
古墳時代の後半、4~5世紀頃、日本に「古代国家」と呼ばれる政治体制が整いつつある時代でした。その後を継ぐ飛鳥時代に花開いたのが、飛鳥文化なのです。
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キーワードは「仏教」と「豊かな国際色」
飛鳥文化を語るうえで外せないキーワードが2つあります。ひとつは「仏教」、もうひとつは「国際色」です。
まず、6世紀半ば、当時朝鮮半島の南部にあった百済(くだら)という国から、仏像や経論などが贈られてきます。いわゆる「仏教伝来」です。
大陸から渡ってきた仏教は、当時の人々に大きな影響を与えました。
日本にはもともと、神道(しんとう)と呼ばれる自然信仰が根付いており、当初は仏教推進派と反対派が激論を交わすこともあったそうです。
仏教を巡る争いは長年続きました。それでも、推古天皇の時代に入る頃には、寺院や仏像の建立に力を入れる豪族が増え、仏教は飛鳥時代の文化に深く浸透していくことになるのです。
また、主に朝鮮半島を経由して、ということになりますが、この時代、朝鮮半島や中国(南北朝時代)をはじめ、インド、ペルシャ、さらに遠くギリシャなど、西方地域の文化の影響を受けた彫像や工芸品が伝わっています。聖徳太子が遣隋使を派遣するより前の話です。
海を渡るための船も航海術もまだまだ未熟だったであろう時代のこと。大陸から伝わる仏教文化は大変貴重なものでした。
こうして伝わった仏教の教えや美術品などを礎として、栄えていったのが飛鳥文化なのです。
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キーパーソンは「蘇我氏」と「聖徳太子」
この時代、飛鳥文化を繁栄させた立役者として忘れてはならない人物がいます。
まず「蘇我氏(そがし)」。古墳時代から権勢を振るい、後に「大化の改新」に大きく関わっていく有力豪族です。
蘇我氏は早くから仏教を推進しており、寺を建てたり仏像を安置したり、仏教の普及に大きく貢献します。そのため、同じ有力豪族であり仏教否定派の物部氏(もののべし)と対立することもありました(崇仏論争)。
この争いは日に日に激しさを増しながら長年続きますが、6世紀後半、蘇我氏の勝利で決着。蘇我氏を中心とした仏教文化が発展していきます。7世紀の後半ごろには、地方でもさかんに寺院が建てられるようになり、仏教は日本中に浸透。
そして忘れてはならないのが、飛鳥時代の礎を築いた「聖徳太子(しょうとくたいし)」の存在です。厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれ、推古天皇のもとで十七条憲法や冠位十二階などの制度を設け、中央集権国家体制の確立に従事した人物として知られています。
物部氏と対立し仏教を推し進めていた蘇我氏ともうまく連携し政治を行っていた、推古朝のブレインです。
聖徳太子は中国大陸の政治制度を学ぶ一方で、現存する日本最古の寺院「法隆寺(斑鳩寺:いかるがでら)」を創建。仏教にも深く傾倒していました。
仏教の経典の注釈書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は聖徳太子の直筆の可能性が高いと言われています。
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