永倉新八ってどういう人?
天保10年(1839)5月23日に松前藩江戸定府取次役の長倉勘次の次男として、江戸下谷三味線堀(現・東京都台東区小島2丁目)にある松前藩上屋敷にて生まれました。近藤勇が1834年、土方歳三が1835年、原田佐之助が1840年、沖田総司が1842年、斎藤一が1844年、藤堂平助が1844年生まれといいいますので、ちょうど中間で原田佐之助と同じくらいの年齢となりますね。江戸っ子でがむしゃらな性格だったりで、がむしゃら+新八で「がむしん」という仇名がつきました。
近藤勇たちと出逢うまでなにをしていたの?
弘化3年(1846)神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門して15歳で切紙。安政3年(1856)18歳で本目録となりました。それを機に元服して新八と称するようになるのですね。
元服の年に剣術好きが昂じて脱藩して、同じ神道無念流の神道無念流百合本塾道場に通い22歳で免許皆伝となっていますよ。長倉を永倉と自称して24歳の時に、同じ松前藩の「市川宇八郎(芳賀宜道)」と剣術修行の旅に出ます。その年に旅から江戸に戻ってからは、腕を見込まれて五稜郭で戦死した伊庭八郎の父親がしてしている心形刀流剣術「練武館」の師範代を務めたりしますよ。それから近藤勇の天然理心流「試衛館」の食客になるという、まさしく空手バカ一代じゃなく、剣術バカ一代のような人だったんですね。この経歴からわかるように本当に強かったと思いますよ。
試衛館での永倉新八はどうしていたの?
元々は北辰一刀流で有名な千葉道場も近かった試衛館に腕試しにやってきて、近藤勇と話をしているうちに「義気が自分と一緒だった」ということで意気投合して食客として居着いたようです。
永倉新八が晩年に残した『浪士文久報国記事』では「此時市ケ谷加賀屋敷柳町二罷在ル近藤勇、剣術導場ヲ開キ日々稽古盛リ、稽古終テ稽古人集リ各々議論国事ヲ愁ル、其連中左二記ス 近藤勇始メ 山南敬助 土方歳三 沖田総司 永倉新八 佐藤彦五郎 大月銀蔵 斎藤一 藤堂平助 井上源三郎 佐藤房二郎 中邨太吉 沖田林太郎」とありますね。人物のところに斎藤一がありますが、この頃にはいなかったようなので、晩年だけに勘違いなのではないかという説がありますよ。その中で黒船以来の開国してしまったふがいない幕府の話や、天下の一大事である攘夷か開国かの談議を試衛館でも繰り広げていたのでしょう。
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新選組での永倉新八
幕府の旗本たちを教育する「講武館」の剣術指南に近藤勇が推挙されました。ほぼ決まっていたのに農民の出身ということがわかると取り消しとなり、近藤勇はショックで部屋に引きこもってしまったのですよ。そこへ他の道場に遊びに行っていた永倉新八が、清河八郎という男が幕府に進言して将軍上洛の時の警護を、腕の立つ浪士たちを集めてするという浪士隊募集の話をもっていきました。近藤勇はとても喜んで道場の門弟たちを引き連れて参加することになります。これが新選組のはじまりといえますね。
壬生浪士組での永倉新八
京都について清河八郎の募集した浪士隊は、実は幕府の金を使って自分が大将の攘夷のための兵をつくるものということが判明します。幕府のため、将軍のために自分にもできることがあるだろうという気持ちで参加した近藤勇をはじめとした試衛館のメンバーは反発して袂を分かちました。その時に水戸浪士の天狗党の生き残りという芹沢鴨たちも行動をともにすることになったのですよ。
芹沢鴨と近藤勇は江戸から京都への道中で、宿泊の手配の役をしていた近藤勇が芹沢鴨の宿屋を取り損ねて、怒った芹沢鴨が町の真ん中で大きな焚火をしたために土下座したという縁がありました。そのために試衛館のメンバーたちは多少は思うところはあったでしょうが、永倉新八は同じ神道無念流だったということから親しく接していたようですね。そのために芹沢鴨を粛正する時には、永倉新八は一切関わりを持っていません。
新選組での仕事はなにをしていたの?
文久3年(1863)8月18日に公武合体に反対して朝廷を思うように操ろうとしていた長州藩を追い出す「八月十八日の政変」の功労で新撰組の名を賜りました。新選組の組織として、局長・近藤勇、総長・山南敬助、副長・土方歳三、その下に10の組を作ります。永倉新八は二番組組長と撃剣師範を務めることとなりました。一番が沖田総司、三番が斎藤一なので、やはりこの3人が強いということでしょうね。
同じ年の5月頃に、江戸で師範代をしていた心形刀流剣術「練武館」の門下生だった島田魁が、永倉新八の後を追って京都にやってきて新選組に入隊しています。
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