日明貿易と花開く北山文化
義満の大名統制策はまだまだ終わりません。今度は明徳の乱や南北朝合一で功のあった大内氏に的が絞られます。朝鮮との貿易で富を蓄え、多くの領地を持っていたために、ここでいったん叩き潰す必要がありました。
例によって策を弄して大内義弘を精神的に追い込み、自暴自棄にさせた上で挙兵させたのです。これを応永の乱と呼びますが、もはやここまでくると義満の策は芸術といっても良いでしょう。
1399年、堺に籠城した大内軍に対して幕府軍は諸方に火を放ち、一気呵成に攻め立てます。大内方も奮戦しますが最後は全滅。大内の所領を大幅に減らすことに成功した義満は、今度は内政に目を移すことになりました。
義満の意識の中では、中国(明)に対しての憧れが強く、その思いが日明貿易という形になったといえるでしょう。義満の時代に貿易がスタートし、以後150年の長きにわたり続いていくのですが、輸入された水墨画や書画など芸術品の多くが北山文化や東山文化の隆盛に寄与しましたし、そして、その貿易収入は幕府にとっての大きな財源ともなったのです。
室町時代の中で、最も政権が安定していた時代を作り出したのが義満でした。まさに将軍らしい将軍と言っても良いかも知れません。
恐怖政治で人々を震え上がらせた将軍【6代足利義教】
将軍権威を高め、幕府の安定期を築いた3代将軍義満でしたが、彼には天賦の才ともいえる器量が備わっていました。しかし、同様に強権をもって大名たちを統制しようとした6代将軍義教の場合は、単に恐怖をもって人々を統率しようとしただけだったのです。そういった違いを自らが認識することすらしなかった義教には、過酷な運命が待っていたのでした。
くじ引き将軍の誕生
第4代将軍だった兄義持が死去すると、幕府重臣たちの合議で次期将軍はなんとくじ引きで選ばれることになりました。今でこそ「くじ引きなんて!」と思うかも知れませんが、当時は大まじめ。石清水八幡宮のくじ引きは、神の御託宣という意味合いで、【神のお告げによって物事を決める】という慣習にのっとったものでした。
将軍家の血筋には候補が4人おり、結果は僧籍に入っていた義円(義教)に白羽の矢が立ったのでした。僧の身分から還俗して将軍になった人物など先例もないことでしたが、神のお告げなら仕方がない。義円が固辞しようがしまいが、なだめすかして還俗させ、将軍へ就任させたのです。
そこでおもしろくないのが、当時は関東の鎌倉府にいた足利持氏でした。自分は義持の猶子となり、れっきとした血筋なのに、なぜ僧籍に入っていた者をわざわざ将軍にするのか?その不満はますます高まり、暴発寸前となっていたのです。
義教の恐怖政治とその最期
1438年、ますます対決姿勢を示す持氏に対して、ついに義教は討伐軍を派遣します(永享の乱)。持氏はこの戦いで滅亡しますが、新たな禍根を残し、関東はますます混乱の度合いを深めていくのです。
そして、この戦いで自信を深めたのが義教でした。宿敵であった持氏を滅ぼし、【将軍親政】をスローガンに積極的に大名統制に乗り出します。大名たちの家督相続や内政にまで口出しし、気に入らない大名を討伐しては、その所領を自分のお気に入りに分配させる。本人としては、かつての義満のように策を弄して大名たちを手玉に取ろうとしたのでしょうが、大名たちにとってはまさに恐怖でしかなかったのです。
そして1441年、自らの身の危険を感じた有力大名の赤松満祐は、義教を歓待するふりで自邸へ招きます。袋のネズミとなった義教は、最後は満祐によって討たれてしまったのでした。
廿五日、晴、昨日の儀、粗聞く、一献両三献、猿楽の初の時分、内方とどめく。『何事ぞ』
と御尋ねあり。『雷鳴か』など三条申さるる処、御後障子引きあけて武士数輩出て、則ち公方を討ち申す。三条、御前の太刀 御引出物に進ずる太刀也 を取りて切り払い、顛倒して切り伏せらる。引用元 看聞御記より
父、義満には器量では遠く及ばない将軍の最期でした。
数寄と風雅に生きた将軍【8代足利義政】
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8代将軍義政が生きた頃は、幕府権力が弱体化し、応仁の乱が勃発するなど戦乱に明け暮れた時代でした。義政が理想とする政治ができないと悟った時、彼の進むべき道は、もはや数寄と風流しかありませんでした。
応仁の乱の勃発
流されやすく怠惰だといわれている義政も、将軍就任当初は歴代の将軍がそうであったように【将軍親政】を目指していました。不穏な動きのある関東へは兄の足利政知を派遣し、がっちりと将軍の脇を固めるべく奉公衆や奉行衆の整備を行い、積極的に政務に勤しんでいた時期があったのです。
しかし、足利将軍の悲しさは、有力大名たちの上に成り立っているがゆえの基盤の脆弱さでした。義政の頃も山名宗全や細川勝元、畠山義就などの力を持った大名たちが幕政を牛耳り、義政の将軍権力がなかなか及ばないところでした。
正室である日野富子との間になかなか男子が生まれず、29歳にして早々に弟の義視を後継者と指名したこともあって、政治へ関心が薄くなる義政でした。しかし、そんな彼をよそに政情は徐々に緊迫の度合いを深めていくのです。
義視を後継者に指名した途端に富子に嫡男が生まれたため、将軍継承問題が起こり、さらには有力大名である畠山氏と斯波氏の家督争い。さらには細川と山名の勢力争いが複雑に入り混じって、ついに応仁の乱と呼ばれる大乱が京都で勃発してしまったのです。時に1467年。これが日本の戦国時代の始まりとなりました。
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