天下の大乱をよそに風雅に生きる
足掛け11年にも渡る大乱で京都の町は荒廃し、人々の悲しみや怨嗟の声は数知れず。そんな中でも義政は、民衆の苦しみすら顧みることなく風雅にうつつを抜かしていたのです。
天皇が難を避けて義政の花の御所へ移ると、天皇と将軍が一つ屋根の下に同居するという不可思議な事態が起こったのもこの頃のこと。さらに花の御所が戦火で焼けると、今度は富子の邸宅に転がり込んだのです。苦しむ民のことはそっちのけで、夜な夜な天皇と将軍が酒宴を催すということじたい、乱れた世の象徴のようなものでした。
応仁の乱が終わり、義政は隠居後に京都東山へ移りますが、そこでも風雅ざんまい。それが東山文化へと発展していくのですが、将軍の権威を地に落とした義政の所業の数々は、後の将軍の立ち位置にも暗い影を落としていくのでした。
気概にあふれた剣豪将軍【13代足利義輝】
剣豪、塚原卜伝に【一之太刀】を授けられたほどの剣の腕前だったといわれる足利義輝。その腕前に違わず気概にあふれた人物でした。沈みゆく足利幕府の中にあって、最後まで「将軍はこうあるべき」という姿を追求しようとした将軍でもあったのです。
不倶戴天の敵、三好長慶との対立
この頃の足利将軍といえば、すでに有力大名の操り人形となっており、たびたび臣下の者と対立しては京都を追い出されることが頻発していました。足利義藤(のちの義輝)の父であった義晴も、幕府管領細川晴元と対立しては近江国(現在の滋賀県)へ逃げ出す始末。父義晴と晴元は和睦して京都へ帰還しますが、そんな時に義藤が新たに将軍となったのです。時に1548年。
しかし、晴元よりも強大な敵が力を伸ばし始めていました。阿波国(現在の徳島県)を本拠とする三好長慶が台頭し、畿内で大きな勢力を持つようになったからです。長慶にたびたび敗れた義藤は京都に居つく間もなく流浪し、ようやく京都に腰を落ち着けたのは将軍就任から12年も経ってからでした。
長慶と和睦した義輝(この頃に改名)は、将軍権威の確保のために、三好氏じたいの力を取り込もうとしました。長慶を幕府重職に取り立てたのも、その意図があってのことです。
将軍親政と、その代償
ようやく京都に腰を落ち着けた義輝は、さっそく将軍親政に取り掛かります。当時の日本は戦国時代の真っただ中にあり、全国各地で戦国大名たちが争いを繰り返していました。将軍本人には鎮圧するだけの武力がありませんから、その権威をもって官職を与えたり、守護に任命することで懐柔を図ったのです。まさに気概溢れる将軍として、人々の尊崇を集めたかに見えました。
しかし、義輝の運命は暗転します。実力者であり、ある意味、庇護者でもあった長慶が死去したからでした。長慶死後に権力を握った松永久秀と三好三人衆(三好一族の有力者)らにとっては、将軍親政に固執する義輝は邪魔な存在だったのです。
1565年、松永らの軍勢は義輝の御所に乱入します。義輝も少ない家臣を率いて奮戦しますが多勢に無勢。その最期は槍で足を引っかけられて倒され、その上から襖をかぶせ、槍でめった突きにするという凄絶なものでした。
結局、足利幕府は脆弱な政治体制の見本となった
実はご紹介した13代将軍義輝の後にも、最後の将軍となった義昭も登場しますが、ここでは割愛しますね。足利将軍とは、絶えず有力大名たちの脅威に晒され、脆弱な基盤の上に成り立っていた地位だとといえるでしょう。将軍親政をスローガンに掲げながらも果たせなかった歴代将軍たち。その姿は混沌とした政治体制の縮図とも映るのです。しかし、それを反面教師とした人物が徳川家康ではなかったでしょうか。足利幕府の脆弱だった部分を根幹から見直し、あれだけの確固たる政治体制を作り上げたわけで、そういう意味では、足利幕府の失敗があったからこそ260年にもわたる太平の世を築き上げたといえるのではないでしょうか。
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