ペリー来航に動いた吉田松陰と攘夷論の台頭
その当時、江戸に遊学に来ていた長州藩士の吉田松陰がいました。佐久間象山に影響を受けた松陰は、黒船に乗り込んで西洋文化をこの目で確かめたいと同乗を頼みましたが、拒否され、幕府に自首します。謹慎処分として長州藩の萩に連れ戻され、野山獄に閉じ込められました。しかし、この時をきっかけに吉田松陰は、野山獄を出てから松下村塾を開校し、多くの維新の義士たちを育てたのです。同時に、国内では水戸藩を中心に攘夷論が高まっていきます。攘夷というのは、外国船を打ち払えという意味でした。
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日米和親条約とは何だったのか
日米和親条約は、部分的な開港を決めた条約ですが、完全な貿易のできる通商条約ではなく、全面的な開国ではありませんでした。そのために、アメリカは、1856年に着任した領事のハリスが貿易を認める通商条約を求めて幕府に圧力をかけ始めたのです。
また、この日米和親条約はヨーロッパ列強にも影響を与え、江戸幕府は、イギリス、ロシア、オランダとも同じ内容の条約を結ばざるを得なくなりました。
日米和親条約は友好条約に過ぎない
日米和親条約は、下田、函館という2つの港を開港し、領事の駐在を認め、一方的な最恵国待遇を与えました。しかし、あくまでも友好条約であり、完全な開国とは言えるものではありません。そのために、アメリカは1856年にハリスを領事として派遣し、彼は全面的な開国、すなわち通商条約の締結を強力に要求してきたのです。
日米和親条約の中身とは
日米和親条約の主な内容は次のようになっています。
・アメリカ船が必要とする燃料や食料は供給する
・アメリカの船が遭難した時には乗組員を救助する
・下田と箱館(今の函館)を開港し、領事の駐在を認める
・アメリカに一方的な最恵国待遇を与える
という4点でした。最恵国待遇というのは、他の国とさらに有利な条約を結んだ時には、アメリカにもその有利になる条項は適用されるというものだったのです。これを認めたことが、その後の日米修好通商条約での不平等条約につながってしまうことになります。
領事ハリスの要求と井伊大老の登場
アメリカのハリスが幕府に通商条約の締結要求を迫りますと、当時の老中首座であった堀田正睦(まさよし)は、孝明天皇に伺いを立てます。しかし、当時の孝明天皇は外国嫌いで、条約締結を許しませんでした。これに攘夷派が絡んで、条約締結を阻止しようという侍(さむらい)を中心とした国内世論を形成します。攘夷というのは、外国船を打ち払えという意味です。
そして、1858年に入ると、再び大きく情勢が変わります。中国ではアロー戦争というイギリス・フランスとの戦争で清が負けてしまいます。ハリスは、イギリス・フランスは強いので、開国しないと日本は清と同じようになってしまうと脅したのです。江戸幕府では、堀田正睦は退き、開国派の井伊直弼(なおすけ)が大老に抜擢されます。井伊大老は、天皇の裁可を受けずに、アメリカと日米修好通商条約を結んでしまうのです。さらに、同じ1858年中には、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ばざるを得なくなりました。
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攘夷派への弾圧_安政の大獄
日米修好通商条約締結に対しては、攘夷派が強く反発します。彼らは、天皇の裁可を受けずに条約を結んだ井伊大老を非難したのです。これには、井伊大老が怒り、攘夷派への弾圧を開始します。安政の大獄です。攘夷派の中心であった水戸藩の水戸斉昭ら100名以上を捕らえて処罰しました。その中には、吉田松陰も含まれていました。この安政の大獄は、井伊大老が桜田門外の変で暗殺される1860年まで続いたのです。
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日米和親条約から日米修好通商条約へ
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1858年に結ばれた日米修好通商条約では、ついに貿易も認められ、港もさらに開港させられています。さらに、後々まで苦労する不平等条項が織り込まれていたのです。