安土桃山時代日本の歴史

「本能寺の変」どうして起きた?諸説と真の理由に触れていく

日本史上最大の謎の1つと言われる織田信長の本能寺の変。逆臣明智光秀によって討たれたとされていますが、一番重要なポイントが史実から抜けているのです。それは遺体が確認されていないことです。本能寺の変には昔から諸説がありますが、ここでは1つずつ検証しながら、諸説では見えない真実に触れてみます。

織田信長の本能寺の変とは?

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本能寺の変とは1582年に京都にある本能寺で起きた事件であり、僅かな手勢で滞在していた織田信長を、家臣の明智光秀が謀反を起こして1万3千もの兵で包囲し、寝込みを襲われた信長は寺に火を放って自害したとされています。同時に信長の嫡男であり、織田家の当主となっていた信忠は妙覚寺に宿泊していましたが二条御新造に移動して応戦した後、同じく自害しました。明智光秀の謀反の理由においては、特に史学的に確立したものではなく、江戸時代に書かれた軍記物などの引用から生まれた諸説に過ぎない状態です。

謎が多すぎる本能寺の変

本能寺の変には史実として裏付けられる公的文書などは存在しませんが、それでも定説が真実に近いものであれば、矛盾点も見当たらないものであり、謎として残らないものです。しかし「明智光秀が謀反により本能寺で織田信長を討った」とされる定説には謎が多すぎます。仮に光秀が私怨をかねてより抱いていたことが事実としても、本能寺でなければいけない理由はどこにもなく、信長が光秀の屋敷に宿泊したタイミングでも討ち取ることは可能だったはずです。また最大の謎が信長の遺体がどこにも見当たらなかったことにあります。特に信長の場合、天下布武に向けて動いている武将であるため、信長を討ったことを確実にする遺体を確保することは当然のことであり、それがなかったということは本来ならありえないことなのです。

そもそも本能寺の変の検証は不可能

本能寺の変の検証は史料からはうかがい知ることができないようになっているのが現状です。宣教師の本国への報告資料においても、本能寺の変の部分のみ記述が欠落している例が多く見られます。すなわち本能寺の変の理由や信長がその後どうなったかといったことに関して、その時代だけでなくその後においても絶対に知られてはならないトップシークレットとして扱われ、あらゆる記録の粛清が行われ、歴史的考察ができないように仕組まれた結果でした。後世に手がかりが残されておらず、誤誘導とも思える軍記物のみ残されたため、どうしても現在根拠として引用されているあらゆる書物からかけ離れた推理も必要になってきます。

諸説からは見えない本能寺の変

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本能寺の変には諸説があり、明智光秀の犯人説が基本となっていて、明智光秀が何故織田信長を討ったのかの理由においての諸説が多いです。或いは直接手を下したのは明智光秀ですが、そこには黒幕があり、豊臣秀吉や徳川家康、朝廷などとされていて、その黒幕の織田信長打倒の理由を述べている説もあります。さらに信長自身は生き残ったとする説すらも存在するほど、信長の死の手がかりは掴めないままです。いずれにしても、江戸時代に書かれた軍記物からの引用が多く、それらしい説明も裏付けとして用いられていますが、本能寺の変の後に織田信長の遺体が見つからない謎を払拭するものではありません。

明智光秀の私怨説について

信長を討ったのは明智光秀とした上でその理由を光秀の信長に対する私怨によるものとする説は、川角太閤記や明智軍記、常山紀談などを根拠とするものです。川角太閤記では徳川家康の接待役を任せられた時の失態により急遽解任されたことが記されています。明智軍記によると自国の領地である丹波や近江を取り上げられ、代わりに切り取り次第として敵方の領地である出雲や石見を充てがわれてしまうのです。常山紀談では、光秀が自分の母親を人質として差し出した相手が信長によって処刑され、結果母親を失ったことに対する恨みについて述べています。

もしこうした背景による私怨からくる襲撃だった場合には、尚更のこと遺体が見つからないままで終わることはありえません。仮に遺体がすぐには確認出来なかったとしても、「襲撃した時点で既に信長が逃げているかもしれない」という想定の元、入念に遺体を確認する筈なのです。信長が生きている場合にはその反動の恐ろしさは誰もがわかっていることであり、確認することなく済ませることはあり得ません。

明智光秀の野望説について

野望説では信長を討ったのは私怨説同様に明智光秀とした上で、その理由を光秀が天下取りに対する野望を抱いており、日頃からチャンスを伺う中、信長の手勢が少ない本能寺滞在時を狙ったからだといわれています。この説は光秀が詠んだ句である「ときは今あめが下しる五月かな」に根拠を求めているのです。言い換えれば、「土岐(明智の元々の姓名)は今天が下知る五月かな」となり、明智、すなわち光秀が天下を取るチャンスがやってきたことを表すためとされています。しかしこの野望説には相当な無理があり、仮に信長を討ち取ったとしても、信長の配下には柴田勝家、羽柴秀吉など相当たる武将が控えているため、彼らと戦を交えなければならなくなること位わかるはずです。

明智光秀の信長四国征伐阻止説について

信長を討ったのは明智光秀であり、その理由は光秀の部下と婚姻関係にある長宗我部元親の領有する四国に対し、信長が攻撃を開始したため本能寺の変を起こすことで阻止したというものです。元々は信長と元親とは良好な関係が結ばれており、四国においても切り取り次第という約束で動いていました。しかし信長の天下統一が目の前に迫ってきた時点で四国を全て元親に任せる約束が反故にされ、光秀は信長と元親の狭間に立たされたということですが、これも無理があり、人との立場で追い詰められるのが原因であれば、足利義昭追放の時点で既に信長との関係がこじれていたはずです。

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