日本の歴史

これを見ればあなたもお城博士!?日本のお城の雑学について解説!

日本に数多あるお城。お城といえば巨大な天守閣がドーンと構えていると思う方もいるかもしれませんがこれは大きな間違いなんです。お城というのはそんなシンプルなものではなく時代ともに変わっていったのですよ。そこで今回はそんなお城に詳しくなるような雑学を伝授しようかと思います!

#1 お城の種類

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全国に数多あったお城ですが、そんなお城でも種類というものがありました。そこで最初は日本における城はどんな種類があったのかを見ていきましょう。

山城(春日山城や七尾城など)

戦国時代の初期の頃は城といえば山の上に館を建てて防御に特化している山城という形式がメジャーなものでした。

その理由は何と言っても山の上にあるため防御がしやすいからです。戦国時代初期の頃はまだ石垣や天守閣などそんな便利なものはございません。そのため、自然の要塞としての役割を果たしてくれる山をうまく利用して城の一部としたわけなのです。しかし、本拠地の方になると不便しかなく、普通大名や家臣などは普段は城下町の屋敷に住み、いざ籠城となった場合に山城にこもるという使い方が一番なされていたそう。しかし、城下町の巨大化や鉄砲の導入などによって戦の仕組みが大きく変わったことで山城は衰退。次に紹介する平山城にそのメジャーな城の座を譲ったのでした。

平山城(大阪城や姫路城や熊本城)

戦国時代の後半の頃になるとお城の価値も変化していき、ただ単なる防衛拠点から経済や政治の本拠地としての役割も持つことになっていきました。そんな時に作られ始めたのが平山城と呼ばれる形式の城。この城は簡単に言えば丘の上に立っているお城なんですが、丘の上にお城を建てることによって敵からの防衛に備えられるだけではなく、街道に近い利便的な役割を持つことができるようになりました。そのため戦国時代の後期や江戸時代前期に建てられたのはほとんどこの形式の城。それほど平山城は大名にとって魅力的な形式の城だったのですね。

平城(名古屋城や広島城)

こうして城の主力は山城から平山城に移り変わっていきましたが、いかんぜん丘がない土地も所々出てきます。そんな所に建てられたのが平城と呼ばれる形式の城でした。

平城とはシンプルに平地に建っているお城のことで、防衛をある程度犠牲にして利便性に特化していました。

そんな平城ですが、平城近くの城下町は繁栄したのがほとんどであり、平城の代表格としてあげられる名古屋城はのちに紹介しますが、日本における国宝の城第1号にもなるほどの威厳のある城だったそうです。

さらに平城の特徴の一つに城を取り囲むお堀が立派という点があります。平城は防衛拠点としては弱い方でしたからある程度その部分を補強するためにはお堀が重要だったのですね。

#2 初めて天守を築いたのは誰?

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城に欠かせないのはなんといっても天守閣。一般的には天守閣を初めて築かれたのは織田信長の安土城の時だと言われていますが、実は天守閣自体は安土城が建てられる約15年前には存在していたのです。

そんな城があったのが奈良の多聞山城。この城は三好家を乗っ取り戦国三大梟雄と呼ばれた松永久秀が1560年に築いたとされていますが、この城の構造のスケールがとにかくデカくなんとこの頃には異例の4層構造の天守が建てられ今に続く多聞櫓のモデルとなっているとも言われています。

その多聞山城は全国各地の戦国大名を唸らせ、ポルトガルの宣教師であり、著書『日本史』を執筆したルイス・フロイスはこの城のことを「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と大絶賛。さらに信長の安土城もこの多聞山城をモデルにしたと言われています。

しかし、多聞山城が素晴らしくてもその城主であった松永久秀がなんと信長に2度も謀反を起こし、その1回目の謀反の時に多聞山城は没収。1576年、安土城が完成する直前に信長はこの城を破却してしまいました。

そのため、今ではかつて4層の天守があった城の面影はほとんどなく、現在では小学校の跡地となっています。

#3 お城に松がある理由

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日本の城に行った時に嫌という程飾られている松。確かに松は松竹梅と呼ばれるように縁起のいい木でもありますが、どうしてそんなに城に松が飾られているのでしょうか?

実は松という植物は日本の城にとって重要な役割を果たしていたのです。

戦国時代にとって一番城が使われる時といえばやはり籠城戦の時ですよね。そんな籠城戦の時に一番大切最初に行わなければいけないことといえば食料の確保です。

実は松という植物はただの景観の為だけではなく、そんな籠城戦の時に食料としての役割を果たしていたのでした。流石に松の外の皮を使うことはありませんけど、その裏側にある生皮と呼ばれる部分を水に浸して粉にするとそれだけで餅を作ることができます。さらに、松の木の近くにできる松ぼっくりも少し加工すれば普通に食べられる代物になったそうですよ。そのため、江戸時代に起きた江戸三大飢饉と呼ばれる一大飢饉の時には民衆達は城や街道に植えられていた松を我先に食べていたため一気に松の木が消滅したという逸話も残っています。

ちなみに、九州の名城熊本城は籠城戦に備えて松の木どころか城の壁にかんぴょうが仕込まれていたり、畳の下に里芋の茎が仕込まれたり過剰とも言えるほど備えられているんですよ。

#4 不幸な城だった名古屋城

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日本では国宝となっている城は5つありますが(姫路城・松本城・犬山城・彦根城・松江城)、実は戦前にはこの5つの城の他に1つ国宝に指定されていた城が実は存在していたのでした。

その城こそが『尾張名古屋は城でもつ』と言われていた名古屋城だったのです。

名古屋城は御三家の筆頭である尾張徳川藩の藩庁としての役割を果たしており、そのまま幕末まで続いたのですが、明治維新を迎えると名古屋城は廃城の危機に瀕してしまいます。

しかし、これは名古屋市民の訴えもあり、廃城はなんとか回避。さらに1930年にはなんと城では第1号である国宝にも認定され、正式に国から保存される立場となったのです。

しかし、1941年から太平洋戦争が勃発し、全国で空襲が行われると大都市であった名古屋も被害を受けてしまい、1945年5月14日の名古屋大空襲の時にあろうことか本丸に焼夷弾が直撃。名古屋城は炎に包まれ焼失してしまったのです。

その後、名古屋城は1959年になんとか再建されるのですが、国宝に選ばれることは2度とありませんでした。

実は国宝の城の基準の一つとして建造されてからそのままの状態のままであると言う条件があり、戦後に再築された名古屋城はもはやこの基準に引っかかってしまい、今ではもう国宝になることは不可能となってしまったのです。

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