幕末日本の歴史江戸時代

明治維新を誘発した「日米和親条約」をわかりやすく解説

日米和親条約と日米修好通常条約の違い

日米修好通商条約は、日米和親条約とどう違っていたのでしょう。

一番の違いはやはり、貿易が正式にできるようになったことですが、そのほか、

・神奈川(現在の横浜)、長崎、新潟、兵庫(今の神戸)の4港の開港

・外国人の裁判は本国が行なう(治外法権)

・日本は自由に関税かけることができない(関税自主権がない)

という条項が含まれていました。下の二つの条項は、日本にとっては非常に不平等なものだったのです。外国人が日本人を殺しても裁判にかける権利がありません。また、自由に関税をかけられないため、国内の生産業者に大きなダメージがかかるのを阻止できませんでした。明治政府はこの不平等条約の改正に苦労しています。

攘夷から開国、倒幕へ_新しい時代へ

日米和親条約から日米修好通商条約に移行したことによって、国内では攘夷派の反発が強く、安政の大獄が行われても、攘夷派の藩では尊王攘夷論が高まります。特に、桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると、攘夷派はさらに力を強めまたのです。そのため、弱気になった幕府は、孝明天皇の妹である皇女和宮を徳川将軍家茂に降嫁させ、公武合体(朝廷と幕府の協調体制)を勧めようとしました。しかし、これはかえって攘夷派の反発を招き、次第に尊王攘夷論から尊王倒幕論に変わっていくのです。新しい時代の光が見えてきました。

生麦事件と下関での長州の外国船砲撃事件の結果

そして、1863年に、薩摩藩が、生麦で藩父の島津久光の行列を横切ったイギリス人を切り殺す事件を起こします。それに対してイギリスが薩摩を攻撃(薩英戦争)してこっぴどく叩いたのです。また、同じ年に、長州藩は、下関海峡を通っていた外国船に砲撃を加えますが、逆に攻撃を受けた四ヶ国艦隊の艦砲射撃で痛い目に合います。これによって、これまでの攘夷論には無理があることがわかり、攘夷派は開国倒幕派へと変わっていったのです。

日米和親条約に始まる開国の結果起こったこと

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日米和親条約を結び、そこからさらに日米修好通商条約に発展していく中で、日本の国内にはどのような状況が生まれたのでしょうか。

日本は、まだ開国による貿易に国内体制は慣れておらず、少なからず混乱が生じるとともに、幕府に対する反発も生まれます。この当時は、まだ不平等条約による反発そのものよりも、実際の生活に影響が生まれて抗議運動が生じていたのです。

国内産業の打撃と、打ち壊しに見られる庶民の不満

日米修好通商条約が成立して、貿易が始まると、当時世界最大の工業国であったイギリスから、日本国内の業者の多い毛・綿の織物や武器などが輸入されました。また、国内では需要の多い生糸、茶などはイギリスなどに輸出されたのです。すなわち、国内の織物業者などは大きな打撃を受け、生糸、茶葉などが品薄になって、国内の物価を大きく押し上げてしまいました。幕府の対策は効果が出ず、そのため、物価の上昇に庶民は怒り、打ち壊しが頻繁に起こるようになっていったのです。

既に、幕府の威信は無くなり、幕府に対する不満は膨らみ、市中でも「ええじゃないか」と世直しを訴える民衆運動も起こっていました。いずれにしても、幕府への不満は、倒幕運動を支え、明治維新の実現に向けて動き出したのです。

薩長同盟と倒幕の実現_明治維新

欧米の戦力の高さを薩英戦争と四ヶ国艦隊の攻撃で思い知られた薩摩藩と長州藩は、攘夷から倒幕に舵を切ります。そして、ついに両藩はそれまで軋轢(あつれき)を乗り越えて薩長同盟を実現し、第2次長州征伐が失敗に終わった後、いよいよ幕府を追い詰めたのです。そのため、15代将軍慶喜は、大政奉還で徳川家存続とリーダーシップを握ろうとします。しかし、倒幕派の薩摩藩と長州藩は主導権を握ろうとする将軍慶喜を許さず、ついに幕府討伐の勅命(天皇の命令)を得て、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと進めました。そして江戸幕府は消滅し、明治維新が成立したのです。

日米和親条約からわずか13年後の出来事でした。日米和親条約によって日本は大きく生まれ変わったと言えます。

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