2-2. 鳥居元忠の壮絶な討死「伏見城の戦い」
家康が関ヶ原に到着する前、すでに西軍は近辺にある東軍の拠点を攻撃し始めていました。その中でも壮絶だったのが、伏見城の戦いです。
家康に古くから仕えた鳥居元忠(とりいもとただ)は、家康が会津へと出立する前に酒を酌み交わし、すでに今生の別れを済ませていました。そして元忠は家康に託された伏見城にわずか1,800の兵で籠城し、4万という西軍の大軍勢と対峙したのです。
元忠は準備を入念にしており、善戦しました。しかし数には勝てず、ついに落城の時を迎え、元忠は敵将と一騎打ちの末に討ち取られました。
最後まで降伏することなく戦った元忠は「三河武士の鑑」と称され、城を守って散った兵たちの血が染みこんだ畳は、戦後、家康によって江戸城に保存され、元忠の忠義の証として多くの大名たちに長い間偲ばれたということです。
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2-3. 三成の誤算と家康の到着
前哨戦で勝利し気を良くした西軍ですが、計算違いも起きていました。大坂城の豊臣秀頼が実質上西軍の保護下にあったため、秀頼はもちろん総大将の毛利輝元に出陣を頼んだのですが、これが果たせなかったのです。総大将不在で、なおかつ求心力が低い三成が中心となって戦いを進めなくてはならなくなりました。また、この本戦直前に行われた大津城の戦いに1万5千の西軍勢力が参加しており、勝利はしたものの、本戦に間に合わなかったのです。ここには西軍の勇将・立花宗茂(たちばなむねしげ)らが参加しており、彼らの不在は、西軍にとっては非常な痛手となるのでした。
そして、家康が関ヶ原に到着します。総勢は東軍が7~10万、西軍が8~10万と西軍がやや数的に優勢で、山の上に布陣したことでさらに有利だったのですが、実は裏で家康側からの調略(ちょうりゃく/内部工作)が行われており、すでに東軍への寝返りを約束していた西軍武将もいました。
2-4. 動かなかった西軍の頼みの綱・毛利隊
こうしてついに関ヶ原の戦いの本戦の火蓋が切って落とされました。数的有利にある西軍が序盤は攻勢をかけますが、またも誤算が生じます。西軍にとっての頼みの綱である毛利勢が参戦しなかったのです。輝元は総大将として大坂城に入ったままでしたが、他の毛利勢は戦場にいました。
南宮山(なんぐうさん)に布陣した、大将・毛利秀元(もうりひでもと)率いる毛利勢は、東軍の脇腹を狙うことができる絶好の位置取りをしていました。しかし、毛利の重臣・吉川広家(きっかわひろいえ)はすでに西軍の敗北を予想して東軍に内通し、戦後に毛利の領地を取り上げられないように約束を取り付けていたのです。このため、毛利勢の先頭に立った広家は、一向に兵を動かそうとはしませんでした。
その一方で、何も知らない秀元は焦ります。西軍首脳陣からは出陣の催促が来るのですが、どうすることもできません。
そして、苦し紛れに彼が言った一言は、「兵に弁当を食わせているのだ!」。
このエピソードは、秀元の官位である「宰相」を冠した「宰相殿の空弁当」と呼ばれています。
こうして、戦況を決することもできたはずの毛利勢は動かず、戦が終わってしまったのでした。そしてついに、勝敗を決めた裏切りが起きたのです。
2-5. 勝敗を決めた小早川秀秋の裏切り
西軍の小早川秀秋もまた、はじめから東軍への裏切りを約束していました。彼は秀吉の正室・北政所の甥で、秀吉の養子となっていたこともあり、将来は豊臣家を支える武将として期待されていました。しかし、秀吉に実子の秀頼が生まれたため、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の養子となっていたのです。隆景は智将として優秀な武将でしたが、秀秋はその才能を受け継ぐことはありませんでした。
おそらく、約束したとはいえ、秀秋にはなかなか決断する胆力がなかったのでしょう。そのため、彼はなかなか動こうとはしません。
それに苛立ったのが、家康です。彼は、小早川隊に向かって裏切りを催促する威嚇射撃を行わせました。
このままでは、家康からも不興を買ってしまいます。秀秋はついに裏切りを決めると、山を駆け降り、味方だった西軍に猛攻をしかけました。すると、これを見た西軍の他の武将たちにもなし崩し的に寝返りが起き、まともに攻撃を受けた大谷吉継は討死。そして西軍は壊滅状態に陥り、当初、長引くだろうと予想されていた関ヶ原の戦い本戦は、たった半日で勝敗が決したのです。
2-6. 「軍神」島津義弘はなぜ戦わなかったのか
関ヶ原の戦いの中では、東軍を怯ませるような敵中突破が最後に行われていました。
西軍に属した島津義弘(しまづよしひろ)は、かつては九州を制覇しようとした島津氏の中核的な存在。当初は東軍に参加しようとしましたが、手違いにより伏見城への入城を断られ、わずかな手勢と共に西軍として参戦していたのです。
軍神と呼ばれる彼の存在は、西軍にとっては切り札でしたが、彼は結局、本格的な戦闘には参加しませんでした。というのも、三成ら西軍首脳陣は義弘たちの数が1,500と少ないことを軽視し、歴戦の名将である彼の献策を一蹴したのです。これで義弘は戦意を失い、傍観者となっていたのでした。
ただ、彼が西軍に所属していたことは事実であり、西軍の敗北が決定した以上、彼は敗軍の将でした。そして彼は、周りをすべて東軍に囲まれる中、敵中突破という決断を下したのです。
2-7. 敵中突破して生還した島津義弘の「島津の退き口」
わずかな兵たちを連れ、義弘は正面から突破を図りました。島津の兵たちの忠誠心は強く、彼らは自分の命を捨てて義弘を逃がすことに、何のためらいもなかったのです。
彼らの戦い方は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれるものでした。数人が踏みとどまり、全滅するまで戦って味方を逃がし、全滅すればまた別の数人が同じようなことを繰り返すという、あまりにも壮絶な戦法だったのです。島津の家老・長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)や義弘の甥・島津豊久(しまづとよひさ)までもがこれに参加し、次々と命を落としていきました。
そして義弘は、怒涛の勢いで東軍を蹴散らし、本国・薩摩へと帰還したのです。帰りついた兵たちは80人余りしかいなかったと伝わっています。
この壮絶な撤退戦は、「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、後世にまで語り継がれました。
2-8. 地方でも起きていた東軍と西軍の激突
関ヶ原の戦いは地方にも波及し、各地で武将たちが東軍と西軍に分かれて激突しました。
先ほど述べた会津や東北地方全体では「北の関ヶ原」と呼ばれる「慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)」が起き、東軍の最上義光(もがみよしあき)勢が西軍の上杉景勝と激突しました。最上義光は苦戦しますが、伊達政宗からの援軍もあり、ちょうど関ヶ原本戦で西軍が敗れたこともあり、上杉勢が撤退したために勝利を収めることができたのです。
また、北陸、四国、九州でも西軍と東軍に属した武将同士の戦いが連続しました。とはいえ、本戦での東軍の勝利は大きく、やがて各地でも東軍が勝利を収め始め、関ヶ原の戦いはいよいよ終焉を迎えることとなったのです。