室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる関ヶ原の戦い!原因・その後・裏切り…歴史ライターがわかりやすく解説

3. 戦後処理と情勢の変化

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関ヶ原本戦後、情勢は大きく変わりました。

徳川家康の力が一気に拡大し、天下はもはや豊臣家から彼の手に移ったも同然となります。西軍となった諸将は力を削られ、新たな勢力構図ができ上がっていくことになりました。

敗北した者たちはどうなったのか、家康はどうしたのか、ご紹介していきましょう。

3-1. 三成ら西軍諸将の処遇

敗れた西軍では、多くの武将が捕らえられたり自害したりしました。石田三成もまたその一人で、彼は西軍首脳の小西行長(こにしゆきなが)や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと共に京都の六条河原で斬首に処せられます。

この時の三成は堂々としたもので、お茶の代わりに干し柿を出されると「腹に悪い」と断り、「もう処刑されるのに」と嘲笑されると、「大義を果たそうと言う者は、最後の瞬間まで命を粗末にはしないものだ」と、本当に最後まで堂々とした態度で首を差し出したそうです。

他には、真田昌幸・信繫親子が高野山へ流罪となり、昌幸は失意の後にここで亡くなります。五大老のひとりで行方をくらました宇喜多秀家はやがて八丈島へと流され、終生本土の地を踏むことはありませんでした。他の武将たちも、領地に関して厳しい処遇を受けることになります。

3-2. 毛利や豊臣家の領地削減と家康の権力強化

参戦せずとも総大将を引き受けた毛利輝元は、家臣・吉川広家が家康に領地保証の約束を取り付けていたにも関わらず、大幅に領地を削られてしまいました。こうした経緯もあり、毛利氏が藩主となった長州藩は、徐々に幕府へのマイナス感情を蓄積していき、幕末になってついに幕府に反旗を翻すことになります。

他にも、上杉景勝など西軍となった武将たちは領地を減らされたり、縁もゆかりもない場所への領地替えになったり、領地そのものを取り上げられ浪人となったりと、厳しい待遇を受けました。

また、豊臣家の直轄地が戦後に廃止されたため、豊臣秀頼は結果的に領地を222万石から65万石に減らされてしまい、経済的にも大打撃を受けることになりました。そしてその直轄地が家康によって東軍で活躍した武将に与えられたことで、家康が武将たちの上に立つこととなり、豊臣家から徳川家への権力移行がさらに加速していったわけです。

こうして、家康の天下はほぼ確定となり、やがて彼は将軍となって江戸幕府を開きます。忍耐の時を長く過ごしてきた彼は、人生の最終盤を迎えるに至り、ついに野望を実現することになりました。

3-3. やがて幕を開ける戦国最後の戦い「大坂の陣」

江戸幕府が開かれ、徳川家の天下がついに訪れると、世の中は太平の世に向かい始めます。

しかし、関ヶ原の戦いで敗れ、領地を奪われて浪人となった者たちは、お家再興を悲願に掲げ、国内のあちこちで雌伏の時を過ごしました。成長した豊臣秀頼はやがて老獪な家康との対立の渦に巻き込まれていくこととなり、浪人たちは秀頼の求めに応じ、大坂城へと結集します。この浪人たちの中に、真田信繁の姿がありました。そして家康もまた、本気で豊臣家を滅ぼしにかかることを決断し、関ヶ原の戦いから14年後の慶長191614)年、大坂の陣が勃発することになるのです。

結果的にこの戦いは家康の勝利となり、豊臣家は滅びます。これで名実ともに戦国時代が終わりを告げるのですが、関ヶ原の戦いは、その端緒となった戦いでした。

家康の躍進と豊臣の没落の象徴となった関ヶ原の戦い

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「天下分け目の関ヶ原」と呼ばれた関ヶ原の戦いは、秀吉亡き後の豊臣政権の衰退と新たな権力者・徳川家康の時代の到来を予感させる結果となりました。戦国武将たちは、自分たちの生きる道を徳川に求めるか豊臣に求めるかの決断を迫られ、それによって運命を大きく変えていくことになります。

多くのドラマを生んだ関ヶ原の戦いは、歴史絵巻としてだけでなく、処世術の大切さと難しさを私たちに教えてくれる部分もありますね。

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