1-5. 三成襲撃事件と家康の存在感アップ
そしてついに、五大老のひとりで秀吉の親友でもあり、武断派にブレーキをかけていた前田利家が亡くなると、武断派は決起して三成を襲撃するという行動に出ます。そのメンバーは加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎(とうどうたかとら)・細川忠興(ほそかわただおき)・蜂須賀家政(はちすかいえまさ)・浅野幸長(あさのよしなが)という、歴戦の猛将ばかりだったのです。
三成は逃げて無事でしたが、徳川家康がここで仲介役として前面に出てきます。
家康は、怒り狂う武断派のメンバーに三成の身柄を渡すことはしませんでした。そこで、亡き秀吉の正妻である北政所(きたのまんどころ)に仲裁を頼み、その後三成をひとまず蟄居(ちっきょ/閉門・謹慎)させたのです。秀吉の家臣ならば誰もが尊崇の念を抱く北政所を間に入れたこともあり、家康は自分の評価をさらに高めたのでした。小うるさい三成を排除できましたし、家康にとっては、まさに事が思い通りに運んだのです。
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1-6. 家康の権力が強まり、三成らが勢力を結集
その後、家康は豊臣政権でもいちばんの大物であり、重鎮だった利家を亡くしたばかりの加賀(石川県南部)前田家を征伐することに決めますが、前田家が恭順したために戦をすることなく脅威を取り除きます。そして次に、会津(福島県・新潟県の一部)の上杉景勝が軍事力を増強していることを口実に、派兵を決めたのです。こうして、家康は自分寄りの武将たちを率いて会津へと向かいます。この勢力がほぼ東軍となりますね。
一方、家康がいなくなった大坂では、家康のこのところの行状に反発と危機感を強めていた石田三成らが動き始めます。
家康を糾弾する「内府ちがひの条々(ないふちがいのじょうじょう)」を諸将に送り、挙兵の準備を始めたのです。そして、三成自身は親友の大谷吉継に「お前は総大将の器ではない」と進言されたこともあり、毛利輝元を説得して総大将に据えることにしたのでした。
1-7. 豊臣秀頼の存在は?
ところで、秀吉の後継者・豊臣秀頼はこの時どこにいたのか?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。秀頼はまだ幼く、とても政務を執るような状況ではありませんでした。また、家康としても、こんな少年をどうこうしようという気持ちはまだなかったようです。
このため、東軍と西軍の開戦に至った大義名分は、「豊臣家、ひいては秀頼のために、害悪となる存在を取り除く」というものだったんですよ。互いが秀頼にとっての害悪だという主張であり、つまりは豊臣政権内での家臣同士の争いということだったのです。こういうわけで、一応主君という立場である豊臣秀頼の存在感が薄かったんですね。
秀頼の実母・淀殿(よどどの)は、三成が挙兵すると、家康に対して早く上洛するように書状を送っていますし、淀殿・秀頼体制が西軍というわけではなく、中立だったことがわかります。
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2. 関ヶ原の戦いの勃発
家康が軍勢を率いて会津へ向かうと、三成ら西軍が挙兵し、これが一連の関ヶ原の戦いの発端となりました。
三成は親しい大名や毛利らと連携して西軍を組織、一方の家康は会津へと率いていた軍勢をほぼそのまま東軍として組織することに成功し、すぐさま関ヶ原へと軍を返します。
戦国武将たちそれぞれの思惑が絡まった、天下分け目の戦いが幕を開けました。
2-1. 家康の東進と西軍有利に進んだ序盤
三成ら西軍が挙兵したとの報せを、家康は小山(栃木県小山市)で受け取りました。
すぐさま軍議を開き(「小山評定/おやまひょうじょう」)対応を協議しますが、秀頼が西軍のほぼ手中にあるようなものだったため、豊臣家に恩を受けている武将たちの中には動揺も見られました。彼らの中には、妻子が大坂や京都に人質として残っている者も多かったんです。実際、東軍に属した細川忠興(ほそかわただおき)の妻・ガラシャは、三成方の兵に屋敷を囲まれると、火を放って死を選んでしまうことになります。
動揺する諸将の中で、豊臣家に恩のある武断派・黒田長政(黒田官兵衛の息子)がいち早く家康に同調し、諸将を説得しました。これで豊臣家に恩義のある福島正則も家康に味方することを表明し、諸将の考えが「家康と共に、秀頼のために石田三成ら西軍を排除する」とのことでまとまったため、家康は諸将を率いて関ヶ原へ向かったのです。会津のことは、伊達政宗や最上義光(もがみよしあき)など東北の武将たちに任せました。
家康の息子・秀忠(ひでただ)らは、上田(長野県上田市)で西軍に属することを選んだ真田昌幸(さなだまさゆき)・信繫(のぶしげ)親子と第二次上田合戦に臨みます。真田家は信繁の兄・信之は東軍に属しており、家中を二分した戦いとなりますが、ここで秀忠は大苦戦。結局関ヶ原本戦に間に合わなかったのですが、家康の本隊はどんどん東進していきました。
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