室町時代戦国時代日本の歴史

日本の「攻城戦」はどのような戦いだった?歴史系ライターがその秘密を解説

小よく大を制す~奇襲戦~

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「桶狭間の戦い」「河越夜戦」など、奇襲戦と作戦は主に野戦において威力が発揮されるものです。しかし攻城戦においても奇襲によって城が落ちることがありました。例としてそう多くはありませんが、少しご紹介していきましょう。

奇襲によって城を奪取!竹中半兵衛の智謀が光った作戦【稲葉山城】

岐阜市にある岐阜城は、織田信長が居城としていたことでも有名ですが、かつては稲葉山城と呼ばれていました。「美濃のマムシ」こと斎藤道三が本拠地とし、その後は義龍~龍興と三代にわたって斎藤氏が治めていたのです。

義龍が若くして亡くなり、息子の龍興が家督を継いだのですが、どうも出来が悪かったようで酒色に溺れて政務を顧みず、寵臣を手討ちにし、奸臣を側に侍らすような主君だったといいます。

のちに秀吉の天才軍師となる竹中半兵衛は斎藤氏に仕えており、おっとりして大人しい性格だったからか、主君の龍興はじめ家老の斎藤飛騨守たちから馬鹿にされていたようです。

ある時、飛騨守の家臣が半兵衛をからかおうと城壁から小便を引っ掛けました。何食わぬ顔で去っていった半兵衛でしたが、義父の安藤守就の屋敷へ向かうや「少しだけ兵を貸してほしい」と頼んだそう。さらに城内にいる弟の病気見舞いと称して長持に武具を潜ませ、たった16人でまんまと城内へ潜入することに成功しました。

弟のいる部屋で武装した半兵衛らは、当たるを幸い城内へ斬りこみ、稲葉山城は上へ下への大騒ぎとなったそうです。この混乱の最中、斎藤飛騨守は斬り殺され、主君の龍興もまた城を追い出されることになりました。

半兵衛は半年もの間、稲葉山城を占拠していたそうで、非を認めて謝罪した龍興に城は返還されることになりました。半兵衛は自宅に隠棲することになりますが、その後「軍師になってくれるよう」頼み込んできたのが羽柴秀吉だったというわけですね。

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明石則実