室町時代戦国時代日本の歴史

日本の「攻城戦」はどのような戦いだった?歴史系ライターがその秘密を解説

若き日の武田信玄初陣の奇襲戦【海ノ口城】

海ノ口城主郭部の巨石
前田左衛門佐 – 自分で撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

武田信玄の父信虎の治世、甲斐を統一した信虎はしきりに信州方面へ出兵しては勢力拡大を図っていました。ことに佐久地方には各地に割拠した小領主が多く、武田に臣従したり、離反したり、裏切ったりと向背が定かでない状況が続いていたのです。

1536年、信虎は8千の兵を率いて佐久へ出陣しますが、16歳になる嫡男の晴信(のちの信玄)も同行させていました。「甲陽軍鑑」によれば、武田軍は1日に城を50も落としたと記述されていますが、おそらく物見の小さな砦や、勝手に敵が逃げ出した小城などもカウントされているのでしょう。ともあれ武田軍は佐久全域を席巻していたようですね。

しかし平賀玄信が2千の兵で籠る海ノ口城だけは、どうしても落とせませんでした。玄信は音に聞こえた猛将ですし、いかに武田勢が精強でも城はびくともしませんでした。

やがて包囲してから1ヶ月が過ぎ、すでに冬の季節も到来していて武田勢にも疲労の色が見え始めていました。真冬の信州で帯陣などできません、信虎も撤退を余儀なくされました。しかしこの時、晴信は殿軍を申し出てきたのです。殿軍とは敵が追撃してきた際に、踏みとどまって本隊を逃げすための役割。とても初陣の者が務まるわけがありません。

「その方の気持ちはわかるが、殿軍はとても難しい役目。他の者に任せた方がよかろう。」

信虎がそう諭しても晴信は聞き入れません。この寒さと吹雪では敵も追って来ないだろうと、信虎は仕方なく許したといいます。

300の手勢を預けられた晴信は、退路を固めつつ密かに出陣の準備をしていました。実は晴信にはわかっていたのです。武田勢の包囲が解けた時点で敵が安心することを。

案の定、城主玄信は武田軍が退却を始めるや、ただちに兵たちを帰宅させています。当時の兵たちは徴集された農民兵ですから、戦いが終われば正月の準備のために家に帰すというのが暗黙の了解だったのです。

その日のうちに海ノ口城へ取って返した晴信は、暗闇に紛れて間髪入れず攻撃を開始しました。城に残ったわずかな兵らは勝利の宴に酔いしれ、警戒すらしていませんでした。

虚を突かれた玄信でしたが、音に聞こえた剛の者。群がる武田勢を相手に縦横無尽に暴れ回ります。しかし多勢に無勢、疲れが見え始めたところをついに討ち取られることになりました。

大軍でも落とせなかった城を、わずかな兵で落としてみせて晴信でしたが、甲府へ凱旋すると父からこっぴどく叱られたそうです。「なぜせっかく奪った城を空っぽにして帰ってきたのだ!」と。

ちなみにこの戦いで敗れた平賀玄信の子孫は、江戸時代にエレキテルなどを開発した発明家平賀源内だという説もありますね。

城跡は「兵たちが夢の跡」的な場所

image by PIXTA / 35065848

今回は有名な城ではなく、どちらかと言えばマイナーな城をご紹介しました。多くの城がそうであるように、かつて戦いのあった城の大半は建物どころか人がいた痕跡すらありません。しかし苔むした石垣や、土塁や、堀などに往時の息吹を感じることはさほど難しくはないでしょう。有名な城ばかりではなく、そんな寂しい城跡こそ「兵たちが夢の跡」を感じられる場所ではないでしょうか。

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明石則実