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5分でわかる秀吉の妻「北政所(寧々)」の生涯ー子供や性格は?わかりやすく解説

豊臣秀吉を天下人にまで押し上げた功労者といって、すぐに名前が挙がるのは「寧々(ねね)」ではないでしょうか?天下統一を成し遂げた秀吉は関白となり、寧々は「北政所」と呼ばれるようになりました。側室はたくさんいたものの、正室だった寧々の扱いは別格で、徳川家康も一目置いていたほど。秀吉の正室「寧々」の人生を辿ってみましょう。

1.寧々の少女時代は?

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織田家の下級武士「杉原定利(すぎはらさだとし)」の次女として生まれたのが寧々(ねね)です。豊臣秀吉と寧々はこの時代にしては珍しく、恋愛結婚で結ばれたといわれています。戦国時代最強の妻と呼ばれた寧々は、どんな少女時代を送ったのでしょう。

1-1.戦国最強の妻「寧々(ねね)」の誕生

寧々は、戦国大名織田家が拠点としていた、尾張国(現:愛知県清須市)清州城下で生まれました。父は下級武士の杉原定利(すぎはらさだとし)で、母は朝日殿(あさひどの)です。残念なことに、生まれも名前もはっきりとは分かっていません。生まれは天文17年(1548)ごろが有力で、実名は寧々(ねね)といわれていますが、高台院時代の署名などで「おね」や「寧(ねい)」などと書かれており、最近では「おね」と呼ばれることが多いようです。

 豊臣家が滅びた姿を見た後も、徳川家を頼りながら豊臣家の存続に尽力した寧々は、子どものころから芯が強く負けることが大嫌いな勝ち気な子だったといわれています。両親も小さなころから礼儀作法や読み書きなどしっかり学ばせ、どこに出しても恥ずかしくない女性へと育てました。

1-2.秀吉との出会い

秀吉は、継父と中が悪く家を飛び出し、定職に就かず遊び場にちょくちょく顔を出す完璧なまでの遊び人だったようです。世間を一通り見ただけあり、10歳も年下の寧々を誑かすのは朝飯前。

信長に認められるほどの頭のよい男で、機転が利き口も上手い、才能はピカ一だったようです。武士の家に生まれ、厳しく育てられた寧々には、新鮮に映ったのでしょう。周りとは何かが違う、秀吉に引かれ離れられなくなったと思われます。秀吉と寧々との出会いは、町でふとであったことからだとか。

1-3.母と絶縁となった結婚

当時の女性は、13歳ごろからが結婚適齢期だったようです。寧々も14歳で結婚しています。寧々のもとにも、お見合い話が来ていました。でも、寧々が選んだのは秀吉。結婚相手に大激怒した母の朝日殿とは、一生絶縁状態となってしまったようです。

理由は、木下藤吉郎(後の秀吉)が農民出身の足軽だったから。当時の武家の結婚は、家の将来のことを考えて主君や親が決めるのが当たり前で、恋愛結婚なんて考えられませんでした。

助け舟を出したのは、朝日殿の義弟浅野長勝(あさのながかつ)です。この時、長勝は足軽の組頭で、秀吉が将来武士として活躍するだろうと才能を見抜いていたとか。実家の体面を守るために寧々は、長勝と朝日殿の姉妹七曲の養女となり、そこから嫁ぎました。まさに気の強い寧々だからこそ、実った純愛だといえるのでは?

1-4.結婚当時の暮らしぶり

祝言は、永禄4年(1561)に足軽長屋で行われています。簀の子の上に藁と薄縁を敷いただけの、質素なものでした。でも、母の反対を押し切ってでも恋愛を貫いた寧々は、秀吉を出世させて絶対に幸せになる”と心に固く誓ったようです。もちろん主君の信長が、公認していたからこそ叶った結婚ですが…。

二人を結婚させたのは、信長との説があります。信長が鷹狩の途中で、浅野長勝の屋敷に立ち寄った時に、お茶を出した寧々を見て「こんな美人見たことない。」と思ったとか。寧々をすっかり気に入った信長は、「藤吉郎、この娘を娶れ!」といったようです。

魔王と呼ばれるほど恐ろしい信長から言葉を給わったら、誰だって震え上がって結婚させるしかないですよね。恋愛からか君主からの命令からかは今となってはわかりませんが…。

2.寧々は秀吉の出世の立役者?

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身分が低かった秀吉は、信長の使い走りでした。寧々が「あげまん」と呼ばれているのは皆さんご存知でしょう。その通り、結婚後の秀吉はめきめきと頭角を現しています。秀吉は結婚の10年後には一城の主となりました。遠征で秀吉が城にいない時は、城内の切り盛りや城下町が平和で栄えるように尽力しています。

2-1.寧々の内助の功

二人の結婚当時は、信長が「桶狭間の戦い」で今川義元(いまがわよしもと)に勝ち、天下統一の目前。最前線で見事な戦いぶりをみせたり、野武士集団を引き連れて敵の陣内に入り込んだり、信長が敵に囲まれた時は少人数の兵でも盾になって守るなど、目覚ましい活躍をします。

数ある内助の功の中で、有名なエピソードをひとつご紹介しましょう。信長に武将たちがこぞって金銀などのお宝をお歳暮に贈る中、幼少より多彩な教育を受け着物創作が得意だった寧々は200枚もの小袖を献上します。

キラッキラに光る生地で作った小袖を見て、金色好きの信長は大変喜んだようです。しかも、パッチワークのように生地をつなぎ合わせており、どれ一つ同じ物がないという気の使い方にも感心されたとか。実は、信長はオシャレで着物にもうるさかったようです。秀吉が10年という速さで侍大将にまで出世した裏には、寧々の内助の功もあったことはいうまでもありません。

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