室町時代戦国時代日本の歴史

日本の「攻城戦」はどのような戦いだった?歴史系ライターがその秘密を解説

策謀を巡らせた心理戦~持久戦~

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時間を掛けてじっくりと城を攻める「持久戦」は、まさに策謀を巡らせた心理戦といっても過言ではありません。敵の補給路を断ち、調略を仕掛け、敵を次第に追い詰めていく作戦は、智謀あふれる戦国武将の本領発揮といったところでしょう。鳥取城攻囲戦、三木城籠城戦、小田原合戦、大坂冬の陣など有名な戦いはありますが、あまり知られていない攻城戦をご紹介していきましょう。

3年間籠城を続け、悲壮な最期をとげた城【新井城】

三浦半島の突端にあり油壺湾に面する要害が新井城です。現在は油壺マリンパークや東京大学の施設があるため、さほど遺構を留めていませんが、かつて相模の北条早雲と戦い、3年も籠城したあげく滅びた三浦氏がいた城となります。

1495年、早雲によって小田原城を追い出された大森藤頼は、親戚の三浦道寸によって保護されました。三浦氏は平安時代からの名族で、いったんは鎌倉幕府執権北条氏に滅ぼされるものの南北朝時代に復活していますね。

北条方と敵対することになり、しばらく対峙していた道寸でしたが、1512年、北条方の大軍によって住吉城(逗子市)岡崎城(平塚市)と相次いで攻め落とされ、弟の道香までもが討ち死にしてしまいました。そして最後の拠点となった新井城に撤退するのです。

新井城は三方を海に囲まれた要害の地。唯一陸続きになった場所には深い堀切を掘って完全に遮断していました。早雲としても容易に落とせず、仮に攻め寄せたとしても大きな損害を受けることは間違いありません。しばらく包囲した上で、敵の食糧が尽きるのを待つ作戦に出ました。

しかし1年経っても2年経っても城は落ちる気配すらありません。それもそのはず、道寸らは「千駄やぐら」という横穴に大量の食糧を備蓄しており、海からも三浦水軍がせっせと補給していたからです。

しかし早雲はあきらめません。海からの補給路も全て遮断した上で時期を待ち続けました。そして1516年、ついに食糧がなくなり、万策尽きた道寸らは門を開いて城外へ向かって打って出ます。そして華々しい最期を遂げたのでした。

三浦同寸の辞世の句が残っていますね。

 

「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ、こわれてあとはもとの土くれ」

 

戦いに勝った者も、負けた者も、死んでしまえば土に還るだけだ。そんな無常感を感じていたのかも知れません。

山陰の覇者尼子氏の最期【月山富田城】

月山富田城跡
安来市政策秘書課投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

戦国時代の中国地方は、大内氏尼子氏のせめぎ合いの場となっていました。また大勢力同士の争いの狭間にいた小領主が、毛利氏中興の祖となった元就でした。

しかし陶隆房によるクーデターによって大内義隆が殺害されて以降は、一挙にパワーバランスが崩れるのです。「厳島の戦い」で陶軍を粉砕した毛利軍は、間髪を入れず大内氏本国へ進攻。瞬く間に尼子氏をしのぐ大大名に成長を遂げたのでした。

元就の次の目標は尼子氏のいる月山富田城でした。尼子氏の勢力を削りつつ石見銀山をも手中にし、尼子氏に属する多くの家臣たちを離反させるなど周到に準備を進めていたのです。

1565年、ついに月山富田城を包囲し、全ての補給路を遮断すると、さっそく総攻撃に移ります。しかし天下の堅城の誉れ高い城は容易に突破を許さず、毛利方の損害は増すばかり。そこで元就は戦術を長期持久戦に切り替えたのでした。

城の食糧が尽きかける頃、元就は敵を内部から切り崩すべく「降伏した者は許す」という触れを出します。すると籠城していた譜代の家臣までもが続々と降伏してくるではありませんか。この状況に疑心暗鬼となった尼子義久は、あろうことか家老の宇山久兼まで誅殺してしまいました。

このようなことがあって、ますます士気が低下していった尼子方は、もはや戦うどころではありません。尼子義久は降伏し、命は助けられたものの安芸へ護送されて幽閉されてしまいました。

籠城開始時に1万人はいたであろう城兵は、開城時に300にまで減っていたそうです。

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明石則実