ヨーロッパの歴史

人類が起こした悲劇を伝える「負の世界遺産」とは?忘れてはいけない8つの遺産を紹介

日本も含めた世界遺産の総数は今や1121件を数え、文化や自然、歴史のすばらしさを私たちに教えてくれています。しかしその中には「負の世界遺産」と呼ばれるものがあることをご存じでしょうか?ユネスコが正式なカテゴリーとして認定しているわけではありませんが、人類が過去に犯した悲惨な出来事を後世に伝え、悲劇を二度と繰り返してはならない戒めとして存在しているものなのです。今回はこの「負の世界遺産」を「戦争」「迫害」「人種差別」の3つに分け、わかりやすく解説していきたいと思います。

負の世界遺産~戦争~

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人類の歴史とは、まさに戦争の歴史だったといっても過言ではありません。有史以来、数えきれないほどの戦いが繰り返され、数えきれないほどの人命が失われてきました。「人はなぜ争うのか?」その答えはいまだに見つかっていません。しかし残された建造物は、その悲惨な歴史をとどめ、私たちに語り

#1 モスタル旧市街の古い橋の地区

「モスタル旧市街の古い橋の地区」はボスニア・ヘルツェゴビナにある世界遺産で、そのシンボルとなる建造物がスタリ・モストという橋です。

もともと木製の橋が架かっていたのですが、1566年にアーチ状の石橋に架け替えられました。橋を造ったのはハイルッディンという建築家でしたが、「橋の工事が失敗した場合、死刑に処する。」というしきたりがあったため、足場を外す日の朝に、自分の墓穴まで掘っていたそうです。

無事に完成した橋は、400年以上にわたってこの地方の名物となっていましたが、1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争によって悲惨な運命を迎えます。

ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人らによる民族間紛争となったわけですが、クロアチア系のカトリック民兵らが、敵とみなすトルコ・イスラム文化の象徴といえるこの街区に攻撃を加えました。

1993年11月、クロアチア人勢力の放った一発のロケット弾が橋の側壁に命中。橋は崩落し、あっという間に失われてしまったのです。

1995年に紛争が終結すると、翌々年から再建工事が始まりました。川底に残る古い残材を引き揚げ、足りない部材は往時と同じく石灰岩を用いたそうです。また再建にあたっては、ユネスコの支援を受けたトルコ企業が創建当時の工法を使っていたとも。

町のシンボルとして復活したスタリ・モストは、紛争の悲劇を伝える象徴として2005年にボスニアヘルツェゴビナ初の世界遺産として登録されることになりました。

#2 原爆ドーム

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Oilstreet – 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる

「原爆ドーム」は日本で唯一、戦争に関わる世界遺産です。1915年に竣工したこの建物は、1933年に「広島県産業奨励館」と改名されました。銅板で覆われたドーム状の屋根が特徴的で、広島市の相生橋や元安橋からもよく見えたそうですね。

しかし一発の原子爆弾が広島市を地獄に変えました。1945年8月6日、B29エノラ・ゲイ号から落とされた原子爆弾リトルボーイは、産業奨励館の真上600メートルの上空で炸裂。その巨大な火球は周辺の建物や人間を焼き尽くし、その爆風によって一瞬で広島の街が廃墟となったのです。

産業奨励館は、原爆の強烈な衝撃波と熱に晒されました。ドーム屋根が一瞬で溶け、全てのものが蒸発しました。しかし幸いにも建物の倒壊は免れることができたのです。

真上から爆風が襲ったことに加えて、屋根の銅板の融点(溶ける温度)が低く一瞬で爆風が突き抜けたこと。また窓が非常に多かったために爆風の逃げ場があったことが理由として挙げられますね。

戦争が終わってしばらくしてから「原爆ドーム」と呼ばれるようになり、1955年に完成した平和記念公園とともに、悲惨な戦争の記憶を残すモニュメントとして保存されました。

一時は保存に経費が高くつくという理由などから、取り壊しも検討されましたが、市民たちの根強い保存運動が高まり、1995年に国史跡として、そして1996年には世界遺産として登録されたのです。

負の世界遺産~迫害~

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人が人を迫害する行為もまた、愚かな人間の所業だと言わざるを得ません。「富める者と貧しい者」「人種」「奴隷」といった要素が、人間の尊厳を奪うことに繋がるのかも知れませんね。迫害にかんする負の世界遺産を3つご紹介していきましょう。

#3 ポトシ市街

「ポトシ」は中南米ボリビアにある都市で、日本の富士山よりも高い場所にあるのだとか。1545年に先住民のインディオらが銀の大鉱脈を発見した時から、この街の歴史は始まります。この山はセロ・リコ(富める山)と呼ばれました。

この地域を植民地としていたスペイン人らは、インディオの奴隷労働によって莫大な利益を得ていましたが、銀鉱脈が発見された時からゴールドラッシュならぬシルバーラッシュに沸き立ったのです。

スペイン王室は、インディオをキリスト教徒化する代償として労役に従事させる許可を出しており、これを悪用したスペイン人入植者たちによって、奴隷同然の過酷な労働が押し付けられました。

インディオたちは過酷な労働の中で、粉塵の吸引や水銀中毒などによって多くが命を落とし、まさに「インディオたちの墓場」と化しました。また「人を食う山」としても恐れられたそうです。

19世紀に入ると銀は枯渇し、活気も衰えていきますが、250年にわたる奴隷労働制の結果、黒人奴隷と合わせて800万人もの人々が犠牲になりました。

1987年、世界遺産に登録されて悲惨な歴史を伝えているのですが、遺産の保護保全が難しいため「危機遺産」となっています。なぜなら坑道が経年劣化して崩落の危機にあり、現在も細々と続く採掘によって環境破壊も懸念されているからです。

#4 ソロヴェツキー諸島の文化的・歴史的建造物群

ソロヴェツキー修道院
Linazet投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

「ソロヴェツキー諸島」は、ロシア北西部の白海に浮かぶ大小6つの島々からなる諸島です。最大面積のソロヴェツキー島に建っているのがソロヴェツキー修道院という建造物で、いかにもロシアらしい尖塔や白壁がある美しい外観を持っています。

15世紀後半に2人の修道士によって設立されました。やがてその規模は拡大し、ロシア正教会を代表する巡礼地となったのです。年間2万人もの巡礼者たちが訪れたとも。また堅固な城壁は外敵の侵入を阻み、数百年にわたってその地位を不動のものとしていました。

1917年のロシア革命を迎えるとソビエト連邦は宗教弾圧に踏み切り、この修道院は閉鎖を余儀なくされました。そして堅牢な造りを生かして、ここを強制収容所に変えてしまったのです。

やがてスターリンの時代を迎えると、その規模は大きく拡大し、最大で65万人もの人々が送り込まれて強制労働に従事させられました。多くは罪もない人々で、過酷な労働環境の中、虐待や拷問などにより、たくさんの命が失われたといいます。

また日本人で唯一、ここに収容されていた勝野金政氏は、日本へ帰国後に収容所の実態を描いた小説を執筆されていますね。

1974年に歴史・建築博物館が設立され、自然保護区となったソロヴェツキー諸島は、1992年に世界遺産へ登録されています。

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