室町時代戦国時代日本の歴史

日本の「攻城戦」はどのような戦いだった?歴史系ライターがその秘密を解説

日本の歴史を変えたといわれる大きな戦いは過去幾度もありました。しかしそのいずれも「城」と大きく関わっていることに気付いている方は少ないのではないでしょうか。「戦い」と「城」は非常に密接な関係にあったのです。実際に起こった戦いをひも解きながら、歴史系ライターが日本の攻城戦について考察していきたいと思います。

日本の攻城戦にはどんなパターンがあった?

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攻城戦いわゆる城攻めのシーンといえば、ドラマなどで目にする機会があると思います。大河ドラマ「麒麟がくる」の中でも稲葉山城攻めや、明智城攻めなどが出てきますね。しかし攻城戦といっても様々なパターンがあり、その時の状況によって攻め手(寄せ手)がどのように城を攻めるのか?その戦略が大きく違ってくるものなのです。

そもそも日本の城はどんな城だった?

攻城戦が最も多かった戦国時代、日本の城はどのようなものだったのでしょうか。中国やヨーロッパのように町を丸ごと囲い込んだ城郭都市などほとんどなく、日本の険しい地形を生かした山城が大半でした。多くは領主が山麓に居館を構えており、有事の際になれば山へ上がって敵を防ぐという作戦が取られていたようです。

現在よく知られている多くの城は、江戸時代に建てられた近世城郭と呼ばれるもので、ほとんど戦いを経験していない城ばかり。そういったことから、攻城戦の舞台になった城は、ほとんどが土造りで実戦的な城ということになります。

実戦的なお城の機能について、写真を交えながら解説していきますね。

「虎口(こぐち)」はお城の出入り口にあたる場所で、ここに門が建てられていました。わざと道を狭くするなどして敵を誘い込み、土塁の上から攻撃します。
虎口(兵庫県・金灌城)

「堀切(ほりきり)」は、山の尾根伝いから攻め寄せてくる敵を遮断するべく設けられた堀です。敵が簡単に近付いて来れないため、背後の安全を確保できるのですね。
堀切(兵庫県・金灌城)

「矢倉(やぐら)」は見晴らしの良い場所に設置することで、敵の動きを監視しやすくします。
矢倉(兵庫県・金灌城)

「曲輪(くるわ)」は造成して平らにした空間のことで、ここに館や兵舎などが置かれ、兵士たちが駐屯していました。
曲輪(滋賀県・玄蕃尾城)

「土塁(どるい)」は土を盛り上げて高くしたもの。攻め手から城内の動きを察知されず、防御に有利な遮蔽物となります。
土塁(滋賀県・新宮支城)

「切岸(きりぎし)」は斜面を崖状に垂直に切り落とし、攻め手が登って来られないようにするためのもの。これがあれば少ない城兵でも城を守ることが可能です。
切岸(京都府・亀田城)

「竪堀(たてぼり)」は山の斜面に沿って掘るため、登ってくる敵が横方向へ移動できないようにするもの。縦列になっているところを上から射撃するわけですね。発展形として竪堀を連続させた畝状竪堀もよく見られます。
畝状竪堀(岡山県・南山城)

戦国時代の「石垣(いしがき)」は、自然の石を低く積み上げ、土が流れ出さないように土留めの役割を持っていました。戦国時代後期になると、高石垣も築かれるようになります。
土留めの石垣(奈良県・宇陀松山城)

高石垣(京都府・須知城)

攻城戦で考えられる4つのパターン

敵の城を攻めるといっても、その時の状況によって方法はかなり違ってきます。大別すれば「力攻め」「持久戦」「奇襲」「自落」に分けられるでしょうか。

まず「力攻め」は文字通り、城を囲み四方から攻め立てることです。攻め手に圧倒的な戦力がある場合や、どうしても急いで城を落とさねばならない時に用いられます。しかし味方にも損害が多く出ることがあり、悲惨な攻城戦になることが多いですね。

「持久戦」は豊臣秀吉の代名詞といえる作戦であり、兵糧攻めとも呼ばれますね。長期にわたって城を包囲して水や食糧を尽きさせます。敵が音を上げて降伏する、または弱り切ったところを見計らって攻撃を掛けるのです。この戦法なら味方の損害はありません。

「奇襲」は、攻城戦において稀に見られるもので、敵が油断したところを見計らって奇襲を掛け、そのまま城を奪い取ってしまうものです。

「自落」は、攻め手が圧倒的多数のために城兵の士気が下がり、何もせずに逃亡してしまうことですね。攻城戦というわけではありませんが、戦国時代に最も多く見られたパターンかも知れません。

壮烈な攻城戦~力攻め~

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攻城戦における4つのパターンのうち、それぞれ具体的にどのような戦いがあったのか?詳しく解説していきましょう。まずは「力攻め」です。最後は追い詰められて降伏・開城することも多かったのですが、城兵みな玉砕してしまう悲惨な戦いもありました。

嗚呼、壮烈!【岩屋城】

戦国時代の九州地方は、大友・島津・龍造寺の三つ巴の争いとなっていましたが、大友や龍造寺を相次いで破った島津氏が怒涛の攻勢を繰り広げていました。

力を失った大友氏は、多くの家臣が離反し、島津軍の攻撃を防戦するのが手一杯の状況となり、滅亡も間近と思われていたのです。大友氏の股肱の家臣だった高橋紹運は、そんな落ち目の主家を見捨てることなく、敵に果敢に立ち向かおうとしました。

1585年7月、筑前(現在の福岡県)の岩屋城に763名の兵たちと籠城した紹運は、2万を超える島津軍を相手に壮烈無比な戦いを繰り広げ、決して降伏することはありませんでした。

籠城すること半月、刀折れ矢尽きた高橋勢は本丸まで攻め込まれ、紹運は矢倉に登って見事に割腹し果てたといいます。この攻城戦で大きな損害を受けた島津軍は、その後の作戦行動が取れないほどの痛手を蒙り、やがて豊臣氏の九州征伐を迎えることになるのです。

紹運の善戦が大友氏を滅亡から救ったと言っても過言ではありません。

武田家滅亡の中、意地を見せた城【高遠城】

桜の季節の城門
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信玄の死、そして長篠の敗戦以来、斜陽になりつつあった武田家。1582年2月、ついに武田を滅ぼすべく織田信長による甲州征伐が始まりました。

怒涛の進撃を続ける織田軍に対し、武田の家臣たちは相次いで裏切り、離反し、城を捨てて逃げ惑う有様でした。そんな中にあって武田の意地を見せた城があります。信濃の伊那地方にあった高遠城でした。

武田信玄の五男、仁科五郎盛信ら500が籠りましたが、敵の織田信忠勢は5万。その圧倒的兵力差を考えれば落城は避けられません。3月2日の夜明けから、およそ100倍の敵を相手に戦い続けます。織田信長の従兄弟だった信家を討ち取るなど奮闘しますが多勢に無勢。次第に本丸へと追い詰められていきました。

激闘すること半日、本丸の城門が突破されると覚悟を決めた仁科五郎らは自刃。ついに高遠城は全滅したのです。仁科五郎は領民らに大変慕われていたらしく、首のない胴体を探し出して手厚く葬ったといいます。いつしかその山は五郎山と呼ばれるようになったそうですね。

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明石則実