足利尊氏の孫で天皇家の血筋?足利義満の生い立ち
室町幕府を開いた人物といえば、ご存知・足利尊氏。鎌倉幕府の家臣の次男坊から武力でのし上がり、征夷大将軍までのぼりつめたツワモノ。その孫に当たるのが足利義満です。尊氏が開いた幕府の地位を確立したのが義満だといわれています。まずはそんな足利義満の生い立ちから追いかけてみることにしましょう。
こちらの記事もおすすめ
英雄と逆賊、2つの極端な評価を下された稀代の人物「足利尊氏」をわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
エリート中のエリート・11歳で将軍に
足利義満は1358年(正平13年/延文3年)、京都で生まれます。
父は室町二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)。祖父は初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)です。
母は紀良子(きのよしこ)。父の側室となった女性でしたが、順徳天皇(鎌倉時代初期の頃に即位していた天皇)の血筋といわれており、さらに正室との間に生まれた長男は幼くして亡くなっていたため、実質上、義満が嫡男となっていました。
義満が生まれた日は、祖父・尊氏が亡くなってちょうど百日経った日にあたります。
祖父・尊氏によって室町幕府が開かれて20年ほど経過していましたが、幕府も世の中もまだバタバタして落ち着かない状態が続いていました。
特にこのころは「南北朝時代」とも呼ばれています。祖父・尊氏が京都から追い出した後醍醐天皇という人が吉野に都を立て(南朝)、尊氏が擁立した光明天皇(北朝)と対立するという、異例の事態に陥っていました。
また、地方で力をつけた有力大名たち同士の権力争いも激化。そんな時代だったので、義満も幼いころ、都を離れて暮らしていたこともあったようです。
そんな時代にありながら、義満は幼いころから英才教育を受けることができていました。
そして義満が10歳のとき、父義詮が死去。1368年に将軍となります。幼い将軍は周囲の争いの火種となることが多いですが、義満は家臣に恵まれていました。周りの支えもあって、若い将軍は室町将軍として次々成果を上げていきます。
地方武士の反乱を抑えて南北朝も統一
義満が将軍職に就いたころも、相変わらず地方の有力大名たちによる勢力争いが続いていました。
就任当時、義満の補佐役についていた細川頼之は室町幕府の力を強化するべく様々な指示命令を発布し、幕府の地位権力を安定させていきます。
室町幕府の力は絶対的なものになりましたが、細川氏の力も強くなっていきました。当然、ほかの大名たちがよく思うわけがありません。
1379年、アンチ細川頼之派の軍勢が頼之の辞任を要求。これを義満が受け入れ、祖父尊氏の時代から室町幕府を支え続けてきた細川頼之が失脚するという事態に陥ります(康暦の政変・こうりゃくのせいへん)。頼之の後釜には斯波(しば)氏が就くことになります。
この事件、一見、義満にとってマイナスのように見えますが……。力のある大名同士が互いにつぶしあい、結果的に幕府の権力がより確かなものになります。もう幼い将軍ではない、たくましく成長した足利義満。康暦の政変は、細川・斯波の争いを利用し、大名たちの力を削ごうと考えたのではないか、とも見られています。
さらに、左大臣など朝廷での高い位も得て、まさに盤石の体制。
そして1392年、味方する有力大名たちが力を失い、すっかり元気がなくなってしまった南朝から三種の神器を取り戻すことに成功します。50年以上も続いた南北朝の統一を成し遂げたのです。
応永の乱勃発・大内氏を破り最大勢力に
有力大名たちが次々と力を削がれ(あるいは内紛などにより自滅)、力を弱めていく中、この状況に危機感を覚えた大名がいました。
大内義弘です。
大内氏は周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊(現在の山口県や島根県、大分県、和歌山県、大阪府の一部)を治めていた有力大名。当初は義満ともうまくやっていました。
大名の力を削ぎたい義満と、それを警戒する大内氏の間に、少しずつ亀裂が生じていったのです。
そしてついに1399年(応永6年)、大内義弘は和泉国堺(現在の大阪府堺市)に城を築き、打倒・義満を掲げて挙兵します。
義満の横暴に耐えかねていた他の大名たちもこれに呼応。五千を超える軍勢が堺に集結したのだそうです。
これに対し、義満は三万もの大軍で堺を包囲します。
数では圧倒していましたが、大内氏が築いた城は強固で、なかなか攻め落とすことができません。とうとう義満は城に火を放ち、大内氏を追い詰めます。
大内軍はついに陥落。多くの家臣が命を落とし、大内義弘も討死。応永の乱(おうえいのらん)と呼ばれる反乱は幕を下ろします。
室町幕府の地位確立!足利義満・次なる野望は?
祖父・尊氏も志半ばにして成し遂げることができなかった南北朝の統一平定をやってのけ、確固たる地位を築いた足利義満。有力大名たちを制圧する一方で、さらなる高みを目指していました。室町幕府の力を絶対的なものにしてからの義満の様子を追いかけてみましょう。
息子に将軍職を譲り太政大臣に
応永の乱が起きる少し前のこと。
足利義満は1394年、征夷大将軍を辞して将軍職を息子の義持(よしもち)に譲っています。形の上では隠居ということになりますが、実際には政治の実権を握り続けていました。
同じ年、朝廷の最高職にあたる太政大臣になります。征夷大将軍経験者である武士が太政大臣に任命されるなど前代未聞。いかに義満の力が強かったか伺い知ることができます。
太政大臣に任命された翌年には出家。といっても仏門に入って静かに余生を……ということではありません。なぜ突然出家したのか?理由はいくつか考えられますが、大きな理由のひとつに、寺院への影響力の強化が考えられます。いくら幕府の力が強くなったといっても、寺院の力は大きい。そこも掌握して力を強めようとしたのかもしれません。
征夷大将軍となって武士の世界のトップとなり、太政大臣となって公家の世界でも大きな影響力を持った義満。次なる狙いは寺院。平清盛や源頼朝、そして偉大な祖父・足利尊氏をも超える存在になったと言っても言い過ぎではないでしょう。
日明貿易で大成功・日本国王と呼ばれる
日本で絶対的な存在となった足利義満。その野望は、はるか海の向こうにある巨大な大陸へと向き始めていました。
もともと義満は、中国大陸へ強い思いを寄せていたと伝わっています。
当時の中国大陸は、明(みん)という王朝が統一支配していました。義満は明との交易を望んでいました。しかし明王朝側は、1369年に既に、南朝の懐良親王(かねよししんのう・後醍醐天皇の息子)を「日本国王」と呼び、唯一の通交相手とみなしており、室町幕府との交渉は認めないと言ってきたのです。
これは困りました。
何とかして明と交易をしたい義満は1380年、「日本国征夷将軍源義満」という名義で挑みますが、明王朝は「天皇の臣下とは交渉しない」とのスタンス。うまくいきません。
そこで思いついたのが、例の太政大臣の辞任と出家です。
これによって、義満は天皇の家臣ではなく、ひとりの自由人という立場で明と交渉することができます。
応永の乱が落ち着いた1401年(応永8年)、義満は「日本国准三后源道義」という名義で使者を明へ派遣。既に南朝の力は無いに等しく、明の皇帝は義満を新しい「日本国王」と呼ぶことにします。
こうして義満は念願かなって明との貿易を開始(日明貿易または勘合貿易と呼ぶ)。この貿易で義満は巨万の富を築きます。