奈良時代日本の歴史

畑や田んぼは誰のもの?奈良時代の政策「墾田永年私財法」とは

「こんでんえいねんしざいのほう」~一度聞いたら忘れられないインパクト大の単語ですが、いったいどういうものなのかよく知らない、という人も多いのではないでしょうか。日本は古来より農業を中心として栄えた国ですから、田畑と国の成り立ちや反映は切っても切り離せない関係。それゆえ、この単語は日本の歴史の中で非常に重要な役割を果たしています。「墾田永年私財法」とは何なのか。今回はこの難解かつ興味深い単語について詳しく見ていきたいと思います。

どんな政策?「墾田永年私財法」の流れと内容

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墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)とは、今から1300年以上も前の奈良時代に発布された政策のこと。字から想像できるとおり、稲作のための田んぼに関する法令です。いったいどんな法令だったのか、時代背景も含めて解説します。

墾田永年私財法の発布時期と内容

「墾田永年私財法」が発布されたのは奈良時代の中期。東大寺大仏殿建立などで知られる聖武天皇(しょうむてんのう)の治世のことです。

発布は天平15年5月27日(743年6月23日)。一口に言うと、荒れ地などを自分で耕して新しく開墾した耕地の永年私財化を認める、というもの。勅(ちょく:天皇の名前で出される命令)として発布されました。

具体的な内容は以下の通りです。

墾田についてはこれまで、三世一身法によって三世代まで私財として認められていましたが、それを過ぎると国に返さなければならず、農民たちの意欲が失われ、荒れ地が増えてしまっていました。

そこで今後は、三世一身に関わらずずっと返さなくてもよくなります。

ただし(永年私財化が適用されるのは)国に事前に申請してから開墾した土地のみ。勝手に開墾した土地には適合しない。また、ほかの人の土地を奪い取るなど不適切なケースも認められませんが、誰かが申請してから3年経っても開墾されていない土地は、ほかの人が開墾してもよいこととする……。

「墾田永年私財法」には以上のようなことが書かれています。

田畑は農民のものじゃない?当時の時代背景とは

日本では古くから稲作が行われていました。人々はお米を主食として生活をしており、いかにお米をたくさん収穫するかが、国を豊かにする重要な要素となっていることは今も昔も変わらず、改めて言うまでもありません。

飛鳥時代から奈良時代に入って、平城京が整備され、都には大勢の人が暮らすようになりました。

人口も増え、お米がたくさん必要になります。お米をとるには、田んぼを作らなければなりません。

田んぼをたくさん作って、農民たちを働かせ、お米をたくさん収穫して、税として徴収する。頭で考えるだけなら簡単なことですが、荒れた土地を開墾して田んぼを作る作業は、想像以上に重労働です。

お米がたくさん必要になったからといって、すぐ収穫できるものでもありません。開墾から収穫まで、おそらく何年もかかるはずです。

せっかく作ったお米を税として国に持っていかれてしまうのだし、苦労して開墾してもなぁ……。農民たちにやる気を出してもらわないと、荒れ地はいつまでたっても荒れ地のまま。役人がキリキリしているだけでは田んぼにはなりません。

どうすれば農民たちはやる気を出すか?荒れ地を田んぼにしてお米をたくさん収穫するには?「墾田永年私財法」はそんな中で誕生した法令だったのです。

「三世一身の法」と「墾田永年私財法」

「墾田永年私財法」の中でも触れていますが、当時すでに、養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された「三世一身の法(さんぜいっしんのほう)」という法律が施行されていました。

「三世一身の法」は、荒れ地の開墾を奨励するために設けられた法令。「養老七年格」と呼ばれることもあります。

国はとにかくお米をたくさん収穫したい。そのため、本来重労働である開墾を促すため「新しく開墾した土地は、本人・子・孫など三世代まで所有してよい」という法を発布したのです。

国からすれば「三世代も使わせてやるんだぞ、ありがたいと思えよ」くらいの感じだったかもしれませんが、農民たちは「たった三世代かよ!曾孫に何も残してやれないじゃないか!」と感じたはず。当時の農具や耕作技術では、稲作をしながら別の土地の開墾を行うなど、途方もないことだったのでしょう。先は見えています。

実際、「三世一身の法」により、それまでより開墾は進んだようです。しかし、国が望んだほどではなく、農民たちの墾田意欲を維持することはできませんでした。

それに、仮に「三世一身の法」に基づいて、三世代後、田畑が国に返却されたとして、その田畑はその後誰が管理するのか……。結局荒れ地が増えるばかりなのでは……?と、いろいろ考えると「三世一身の法」も一時的な法令に過ぎず、改正の必要があると見なされたものと思われます。

農業を維持するには50年、100年先を見据えるべきか……。これは昔も今も同じことです。発布から20年余り後に「墾田永年私財法」が発布されることとなります。

導入後はどうなった?「墾田永年私財法」の行く末

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開墾を奨励するために発布された「墾田永年私財法」ですが、発布された後はどうなったのでしょう。田畑は増えたのか、お米の収穫量は上がったのでしょうか。「墾田永年私財法」発布後の日本の様子を追いかけてみましょう。

収穫は増えるが意外と費用がかさむ

「墾田永年私財法」により、開墾率は格段に上がったようです。

当時の基本的な法令(律令)では、土地はすべて国のもの(国有地)であり、民衆に割り当てることで耕作を行わせ税を徴収する、というシステムとなっていました。

「農民たちの耕作に対する意欲を向上させ、農民たちが怠けないようにして、たくさんお米を作らせたい」という目的で設けられたのが「墾田永年私財法」です。

当時の農民たちがどう感じていたか知る術はありませんが、とりあえず、開墾した土地はずっと使えるわけですから、みんな頑張ってどんどん荒れ地を開墾していきます。こうして耕作地はどんどん増えていきました。

しかし一方で、新しい問題も浮き彫りになります。

例えば環境の整備です。

稲作には、肥えた土地と同時に、きれいな水がたくさん必要になります。どんな土地でもお米が作れるわけではありません。近くに川があるとか、池があるとか。ない場合は、水路を作って田んぼに水を引く必要があります。そういう点から、地形によっては莫大な費用がかかる可能性がありました。

当然、国が水路を整備してくれるはずもありません。開墾する農民たちで作る必要があります。

こうした整備を行うことができる資金や力を持っている者が、広い農地を所有でき、収穫量も上がる、裕福になる……。そんな構図が出来上がってきた時期でもありました。

有力貴族・荘園・武士の誕生

水路を整備するお金など、当時の農民たちにはありません。

そのため、資金のある貴族や、大きなお寺などが、稲作に必要な環境整備のお金を出し田畑を所有する、という構図が浮かび上がってきました。

なんだかんだ言っても、最終的には、お米をたくさん収穫できる者が勝ち組。次第に、開墾に出資した貴族や寺院が権力を持つようになっていきました。

資金のない農民たちはというと、整備の整った田畑を持つ貴族や寺院に雇われ働くよりほかに道はありません。

「墾田永年私財法」発布の折、聖武天皇はじめ国の役人たちがこのような状況を予測していたかどうか、定かではありません。それほど深く考えていなかったのかもしれませんが、結果的にこの後、市井の人々の中に格差が生まれていくことになるのです。

ちょっと前まで、土地は全部国のものだったのに、お米の収穫量(つまり税)を増やしたいがために編み出した措置が、権力者を生み、彼らに私有地を与えることとなります。

このようにして生まれた私有地が「荘園(しょうえん)」です。

そして、こうした私有地を奪われないようにするため、規模の小さな墾田や地方豪族などを中心に自警団を組む者たちも増えてきました。これが武士の始まりであると考えられています。

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