安土桃山時代日本の歴史

「太閤検地」とは?天下人・豊臣秀吉が思い描いた日本の姿とは

戦国時代を勝ち抜き、天下統一を成し遂げて日本のトップに立った豊臣秀吉。ただ武力や財力に訴えただけでなく、自分の地盤・しいては日本の国づくりのために、様々な政策を実行しました。社会科の教科書にも載っているほど有名なものに「刀狩り」と「太閤検地」がありますが、今回の記事ではこの「太閤検地」に注目し、どういう政策だったのか、わかりやすく解説いたします。

秀吉肝いりの一大事業「太閤検地」と戦国時代の農地事情

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現代では、秀吉が「太閤」という称号を名乗っていたことから「太閤検地」という政策が有名ですが、「検地」自体は秀吉より前、すでにあの織田信長がその必要性を感じて実行に移していました。秀吉はもともと、織田信長の家臣。天下統一には検地が不可欠であると常々感じていたのかもしれません。では、秀吉が行った検地とはどういったものだったのでしょうか。理由も含めて詳しく見ていきましょう。

そもそも「検地」とは何なのか

ざっくり言うと、検地(けんち)とは「土地の測量調査」のことです。

田畑の面積や収穫量を正確に知ることで、税(年貢米)の徴収や土地の農民の支配をより効率的に行うために行います。

例えば、ある土地の豪族が、隣の豪族の土地に押し入って頭領を倒した場合のことを考えてみましょう。豪族たちがほかの土地を襲う理由は農地を手に入れること。お米などの収穫物と、今後も収穫を行う労働力(農民)をまとめて手に入れるためです。

新しく手に入れた農地でどれくらいの米がとれるのか、征服した後に奪い取った土地の広さを測定します。こうした測定は、古い時代から行われていました。

しかし、測定方法は、測定する人によってバラバラ。長さの単位は統一されていませんでしたので、農地がどれくらいの広さなのか、地域によってまちまちになっていたのです。

飛鳥時代や奈良時代の頃は、農地とはすべて国有地であり、国の中枢機関が土地の広さなどしっかり管理していました。しかし平安時代に入って「荘園」と呼ばれる私有地が増えると、それぞれどれくらいのお米がとれるのか、全体を把握することができなくなっていたのです。

土地の広さを図って効率よく税を徴収

鎌倉時代、室町時代と時代が進んでも、この状況は変わらず、どんどんワケが分からなくなっていきます。

人口が増えて、年貢はたくさんとりたい、でもどれくらい土地があるかわからない。農民たちにとっても、誰に年貢を納めているのかわからないし、一生懸命お米を作ってるのに自分たちは全然食べれないし、なんだか余分に徴収されてるような気もするし……。これでは農民の不満も募ってしまいます。

貴族や武士がいくら威張り散らしたところで、農民がお米を作らなくなったら日本はおしまいです。

狭い地域限定の小規模な検地ではなく、日本全体で統一したやり方による検地が不可欠。でも誰がやる?よその土地の検地を勝手にやるわけにもいきません。

室町幕府の力が弱まり、地方豪族や御家人たちが力をつけて領地を争いあい始めると、事態はどんどん悪いほうに……。そんな中、織田信長は三河や近江や尾張など、古くからある律令国の境を超えて天下を一つにしようとしていました。

織田信長は志半ばにしてこの世を去り、代わって登場したのが豊臣秀吉でした。

天下統一を果たした秀吉なら、日本全体で検地を行うことが可能。誰も文句は言いませんし、みんな秀吉のやり方に従います。

秀吉は信長が命を落とした1582年(天正10年)から早々に、検地を初めたのだそうです。

改めて考える「太閤検地」の目的とは?

秀吉が検地を行った目的は、年貢をより効率よく徴収するためだったと考えられています。

戦国時代、農民たちを取り巻く環境は非常に複雑なものになっていました。

農民たちは自分が住む村の領主に年貢を納めていましたが、長い年月が経つと、農民の間にも身分の差が出てきます。

農民たちは、まず力のある農民に年貢を納め、さらに領主に年貢を納め、場所によってはその地域で影響力のある寺院にも納めて……と、年貢を二重取り三重取りされてしまうケースも珍しくありませんでした。

年貢がきつくて、農地を放り出して逃げてしまう農民も少なくありません。

この複雑な構造を変えるには、どの農地の農民がどこにどれくらい年貢を納めるのかきっちり決めて、農民たちと農地をしっかり結び付けておく必要があります。

そうすれば、毎年安定してお米が収穫でき、しっかり徴収できるはずです。

農地や農民たちを正確に、公平に、しっかり管理。ここに「太閤検地」の目的があったと考えられています。

日本初の大規模検地「太閤検地」はどのようにして行われた?

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現代なら、「メートル」や「平方メートル」「ヘクタール」など共通の単位があるので、北海道だろうが東京だろうが佐賀だろうが、どこでも同じやり方で土地の測定が可能です。しかし戦国時代はまだ、統一した単位すら存在していませんでした。今でこそ「太閤」の冠がついていますが、かなりの時間と労力をかけて行われたと伝わっています。「太閤検地」とは具体的に何をしたのか?その後の展開は?日本の農地はどうなっていったのでしょうか。

大仕事!15年以上かかった太閤検地

秀吉が行った検地は「太閤検地」と呼ばれていますが、実際には、秀吉が太閤になる前から、天下統一を果たすずっと前から始まっていました。

厳密には、太閤はおろか関白にもなっていない、秀吉が今後どうなるかわからない頃から始まっていますが、分類上、秀吉が関わった検地を全部まとめて「太閤検地」と呼んでいます。

現代人にとっては「太閤=秀吉」という印象が強いので、この呼び方が定着していったようです。

さてさて、その「太閤検地」ですが、いつ頃から始まったかというと、信長が本能寺の変で明智光秀に殺された年からだと言われています。1582年(天正10年)のことです。

信長の後継者として天下取りに名乗りを上げた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、この年から早速、全国で土地の測量を開始。検地の重要性が伺えます。

そして検地は秀吉がなくなる1598年(慶長3年)まで続きました。

測定ルールを決めてしっかり検地

「太閤検地」の重要なポイントは、一定のルールを作ったことです。

前にも述べたように、検地を行った大名は大勢いましたが、測量の仕方や単位がバラバラでした。

例えば、今川義元と前田利家の測定方法が異なったとすると、今川家領地のの「升1杯」と前田家領地の「升1杯」では、お米の量が違ってくるわけです。

土地の広さも、各大名とも、長い棒を使って測っていましたが、この棒の長さがそれぞれ違うため、例えば農地の一辺が「棒4本分の長さ」だったとしても、今川家領地と前田家領地では田んぼの広さに差が出ます。

秀吉はまず、測定方法と単位を確立しようとしたのです。

「なんだ、そんなのあたりまえじゃん」と思ってしまいがちですが、当時はこれが大仕事。想像以上に骨の折れる作業だったようです。

具体的にどのようなルールを決めたのか、具体的に見てみましょう。

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