- 2つのロシア革命が起きた背景とは何か
- ヨーロッパ列強の中で格段に遅れていたロシア帝国の実態
- ロシアは南下政策の矛先を東アジアに向け領土拡張をはかった
- 日露戦争中に起きた第一次ロシア革命
- 革命のきっかけとなった日露戦争でのロシアの劣勢
- 血の日曜日事件で広がる革命の火の手
- 皇帝の妥協とストルイピンの政治
- 第一次世界大戦中に起きた第二次ロシア革命
- 第一次世界大戦への参戦と収まらない民衆の不満
- 二月革命で帝政が崩壊。臨時政府とソビエトの二重権力時代が到来した
- レーニン率いるボリシェヴィキの勢力拡大
- 十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが臨時政府を打倒
- ロシア革命後、ロシアはどうなったのか
- 連合国はロシア革命に干渉し、シベリア出兵などを行った
- ソビエトは赤軍を組織し戦時共産主義体制をとることで反革命運動に対抗した
- ロシア革命は400年続いたロマノフ王朝を滅ぼし、世界初の社会主義国家を生み出した
この記事の目次
2つのロシア革命が起きた背景とは何か
19世紀後半から20世紀にかけて、世界は帝国主義の時代に突入していました。欧米列強は競って軍事力を強化し、世界各地を植民地としていきます。ロシアも列強の一員として世界分割に参加しようとしました。しかし、ロシア帝国は19世紀後半にようやく農奴を解放するくらい後進的な国。弱い国力のまま競争に乗り出したため、ロシア国民は重い負担に苦しむことになります。
ヨーロッパ列強の中で格段に遅れていたロシア帝国の実態
1856年、ロシアはイギリス・フランスなどとクリミア戦争を戦い敗北しました。この敗北で近代化の必要を痛感した皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を出して上からの改革を進めます。しかし、皇帝自身が暗殺されてしまったため改革は不十分な状態となってしまいました。
国内産業が弱かったロシアはフランス資本を導入して産業の近代化を図ります。その代表がシベリア鉄道の建設でした。シベリア鉄道の完成により、ロシアは東に向けて拡大する輸送路を確保します。
こうして、遅ればせながらロシアも工業力を高めていきましたが、フランス資本あっての近代化であり基盤が弱いことに変わりはありません。工業力の発展が不十分なまま、ロシア帝国は領土拡張政策を推し進めます。
ロシアは南下政策の矛先を東アジアに向け領土拡張をはかった
19世紀後半、ロシアは不凍港を確保するため南下政策を実行します。ロシアはバルカン半島・トルコ方面、イラン方面、東アジアなどで南下を試みました。
そのうち、バルカン半島・トルコ方面はイギリス・フランスがオスマン帝国を支援したため挫折。イラン方面はインドに植民地を持つイギリスと対立し、こちらも膠着状態となります。そこでロシアは清朝が弱体化し進出しやすくなっていた東アジアで拡大を試みました。
1900年、清で義和団事件が起きると、日本とともに出兵。事件解決後も中国東北地方の満州に軍を置き、さらなる南下の機会をうかがいました。そのため、朝鮮半島に進出していた日本との対立が激しくなり、日露戦争に繋がります。
日露戦争中に起きた第一次ロシア革命
ロシアの東アジア進出は日本との対立を招きました。1904年、日本とロシアは日露戦争を始めます。戦争がはじまると、ロシア軍は各地で日本軍に敗れ後退を余儀なくされました。戦力を増強し、戦争を継続しようとするロシア帝国政府に対し民衆が戦争中止などを求めるデモを起こします。軍隊がこのデモに対して発砲したことから、第一次ロシア革命が始まりました。
革命のきっかけとなった日露戦争でのロシアの劣勢
ロシアが義和団事変以後も満州に居座ったことで、朝鮮半島支配をもくろんでいた日本との対立が深まりました。日本は単独ではロシアに対抗することが難しいと判断し、世界各地でロシアと対立していたイギリスと日英同盟を結びます。
イギリスの支援を得た日本はロシアとの対決姿勢をとり、ついに両国は戦闘状態に入り、日露戦争が始まりました。日本は1年がかりでロシアの要塞があった旅順を攻め落とし、1905年3月の奉天会戦でロシア軍主力を打ち破ります。
さらに、1905年5月の日本海海戦でも勝利し戦争での日本優位が決定的となりました。ロシア軍はシベリア鉄道を使って戦力を増強し、戦争を継続しようとしましたが国内情勢が悪化して戦争継続が困難になります。
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血の日曜日事件で広がる革命の火の手
日露戦争中の1905年1月、司祭ガポンが指導する労働者は皇帝ニコライ2世に対して労働条件の改善や国会の開設、戦争の中止などを訴える請願のデモを行いました。
このデモは皇帝の打倒を目指すものではなく、あくまでも皇帝に「お願い」をするためのものでしたが、デモが皇帝打倒の革命につながることを恐れた政府は武力で弾圧しました。
しかし、これが裏目に出ます。皇帝に裏切られたと感じた民衆・労働者は各地で暴動を起こしました。これを、血の日曜日事件といいます。3月の奉天会戦、5月の日本海海戦など相次ぐ敗報を受け、ロシア国内では戦争中止を求める世論が高まりました。
さらには黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの水平反乱やオデッサの市民蜂起などもあり、戦争継続は不可能な状態となります。皇帝政府は日露戦争継続を断念しポーツマス条約を締結しました。こうした一連の動きを第一次ロシア革命といいます。
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皇帝の妥協とストルイピンの政治
皇帝ニコライ2世は自由主義者のウィッテを首相に起用して事態の収拾をはかりました。ウィッテは皇帝の名の下で十月宣言を出します。十月宣言では思想・言論の自由を認めることや国民の選挙で議員を選ぶ国会(ドゥーマ)の開設などが認められました。
ウィッテが保守派との対立によって辞任したのち、首相の座に就いたのがストルイピンでした。ストルイピンは農村共同体のミールを解体して自作農を作り出そうとしましたが、うまくいきません。また、ストルイピンは革命運動を取り締まるため戒厳令を実施し多くの人々を絞首刑にしました。
反対派を弾圧し、平静を取り戻したのちに改革を進めようとしたストルイピンでしたが、ミール解体に反対する農民の反発などに遭い改革はうまくいきません。1911年にストルイピンが暗殺されると、改革は立ち消えとなってしまいました。ロシアは改革を実行できず、国内矛盾を抱えたまま第一次世界大戦に突入します。