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近代日本の先駆けとなり散っていった「小栗忠順」その波乱の生涯を歴史系ライターが解説

日本の近代化に尽力

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帰国後の忠順は、いよいよその能力を開花させます。日本を近代化させるべく海外の優れた技術を導入し、外国に負けない国づくりをするためです。そこには大きな壁が立ちはだかるものの、勇気をもって乗り越えようとする彼の姿がありました。

外国奉行として、ロシア船の暴挙にノーを突きつける

外国奉行に就任して間もない1861年、対馬で大事件が起こります。ロシアが太平洋への進出を企図し、対馬周辺に艦隊を送り込んだのです。そのうちの1隻ポサドニック号が湾内に投錨し、対馬の一部を租借地として借り受けたいと無理難題を持ち掛けてきたのでした。

そればかりではありません。勝手に上陸して兵舎を建てたり、村を襲って略奪したり、対馬藩の武器まで強奪されてしまい、小競り合いで死者まで出る始末。

そこで幕府は外国奉行の忠順を派遣し、事態の収拾に当たらせたのです。艦長ビリリョフ「ぜひ対馬藩主の宗氏と謁見したい。」と要求しますが、忠順は「日本の国土を管轄しているのは幕府であり、対馬藩と交渉するのは筋が違う!」と断固拒否しました。それもそのはず。問題を藩主に丸投げするわけにはいきません。国と国の問題は幕府が前に出て話をするべきなのです。

急ぎ江戸へ戻った忠順は、老中はじめ幕府の上層部に献策します。

 

・一藩だけの問題にあらず。対馬を幕府直轄地とした上で交渉すべきこと。

・事件の解決は、正式な外交交渉でおこなうこと。

・国際世論に訴えてロシアの非をならし、イギリス海軍の助力を得ること。

 

しかし忠順の必死の嘆願も虚しく、その献策が入れられることはありませんでした。

「今の幕府に国際問題を鎮める力は無きに等しい。私の案が受け入れらないようなら、この職に留まる必要もなし。」

こうして忠順は外国奉行を辞職してしまいました。ちなみにこの事件は同年解決されるわけですが、忠順が献策した通り、イギリスの介入によってロシア側が折れる結果となりました。

勘定奉行に就任

外国奉行の職を辞したものの、すでに力を失いつつあった幕府は、なお忠順の能力を必要としていました。翌年には勘定奉行に就任しています。また名乗りを小栗豊後守から、小栗上野介に改めていますね。

実は「上野介」の官職名をもらう際に、「赤穂浪士に討たれた吉良上野介の前例もあるゆえ、やめた方が良いのでは?」と親類から止められたそうですが、それでもなお「なあに、もし国家のために死ねるならそれで本望さ。」と笑って答えたそうです。

1864年、フランス公使ロッシュと繋がりを得た忠順は、製鉄所(造船所)を造ることを幕府上層部に提言します。しかし幕閣たちはこの意見に強硬に反発しました。

「幕府財政が逼迫している折り、そんなものを造る余裕はどこにもない。だいいち軍艦は外国から買い入れたものがあるではないか?」

しかし忠順はなおも献言します。

「いいえ、もし軍艦が損害を受けたり故障した場合はどうします?また新しいものを買い入れるのですが?造船所で修理し、足りない部品があれば我が国で作れば良いではありませんか。」

理路整然とした忠順の言い分に幕閣たちはぐうの音も出ません。第14代将軍徳川家茂の承認もあり、ついに製鉄所が横須賀に建設されることが決定したのです。

旧知の栗本鋤雲に対して忠順が言った言葉があります。

 

「横須賀造船所が出来上がれば、いずれ土蔵つき売家の栄誉が残せることになりましょう。」

引用元 「匏庵遺稿」より

 

「幕府の命運はもうすぐ尽きてしまうかも知れないが、日本という国は今後も続いていくはずだ。横須賀造船所が日本のためになれば、それは徳川家が遺した仕事ということになるだろう。それこそが徳川家の名誉となり、国の利益になるのではないか。」

のちの明治新政府に横須賀造船所を引き渡し、近代日本のために使ってほしいということを見越していたのではないでしょうか。

幕府の軍事力強化を図る

横須賀造船所の完成を見ることなく忠順はこの世を去ることになりますが、彼の功績はそればかりではありません。現代社会では当たり前になっている社内教育・雇用規則・残業手当・簿記。人事労務管理などが日本で初めて取り入れられました。

また日本初の商社「兵庫商社」を設立しています。大資本の外国人商人に対抗するために西洋式カンパニーを作り、貿易拡大を目指すものでした。日本人だけで輸出する仕組みを作り、外国人たちに買い叩かれないようにするためでした。得た膨大な利益は社会に還元し、街灯や郵便制度などのインフラに使われる構想だったようですね。大政奉還や戊辰戦争によって頓挫しますが、その考えは明治になって引き継がれていきました。

いっぽうで忠順は、幕府の軍事力強化にも乗り出しています。幕府直轄の関口製造所で大量に鉄砲を製造させ、同じ敷地内に西洋式火薬工場も建設しました。

またフランス軍事顧問団を日本へ招き、幕府陸軍にフランス式軍制を取り入れて強化を図りました。同時に大量の武器や弾薬も買い入れていますね。フランス軍事顧問団はその後も旧幕府軍に追随し続け、戊辰戦争最後の舞台となった「五稜郭の戦い」に参加しています。

まさに時代を先取りしたかのような忠順の発案は、日本近代化の先駆けといえるものでしょう。幕府という枠に捉われない自由な発想こそが彼の本領でした。

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